怪談(妖怪や幽霊にかかわる話)(読み)かいだん

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

怪談(妖怪や幽霊にかかわる話)
かいだん

不思議な事柄についての話、とくに妖怪(ようかい)や幽霊にかかわる話をいう。妖怪とか変化(へんげ)とかいうのは、古来の信仰が衰えるとともに、雑多な神霊が落ちぶれて、わずかにその痕跡(こんせき)をとどめたものといえよう。一般には、妖怪や変化というかわりに、バケモノとかオバケとかよばれるが、そのようなことばが、幽霊をも含めて、あいまいに用いられている。しかし、民俗学の立場からは、妖怪と幽霊とは明らかに区別されなければならない。妖怪というのは、特定の場面に限るけれども、特定の相手を選ぶものではない。しかし、幽霊のほうは、特定の相手を選ぶけれども、特定の場面に限るものではない。また、妖怪というのは、さまざまの異様な姿に化けるだけでなく、物音や火や風としても現れるが、幽霊のほうは、ありのままの人間の姿で現れるのである。すでに古代から、多様な姿をとった妖怪が、しばしば説話の中心に置かれてきたが、下って近世には、一定の型を備えた幽霊が、多く怪談の主人公に据えられている。その型によると、草木も眠る丑満つ時(うしみつどき)、雨のそぼ降る柳の陰に、足元のおぼろげな姿で現れて、こまごまと恨みがましいことばを述べるというのである。

[大島建彦]

日本の怪異文芸

このような妖怪や幽霊に関する話は、伝説や世間話などの伝承を通じて知られるだけでなく、また怪異小説や怪談集などの文芸、怪談狂言や怪談咄(ばなし)などの芸能としてももてはやされている。さかのぼって、『日本霊異記(りょういき)』や『今昔物語集』など、いくつかの先行の説話集は、怪異に関することを扱っているが、怪談集としてまとまったものとはいえない。近世に至って、百物語の流行とともに、怪談集の形態も整ってきたといえよう。この百物語というのは、夜に数人が集まって交代で怪談をしあうというものである。そこでは、100本のろうそくをともしておき、怪談の一話を終えるごとに、その1本ずつを消してゆき、最後の1本を消すとともに、なにか妖怪が現れると伝えられている。そのような怪談会を背景に、『百物語』(1659)、『古今百物語評判』(1687)、『諸国新百物語』(1692)、『好色百物語』(1701)、『御伽(おとぎ)百物語』(1706)、『太平百物語』(1732)、『万世百物語』(1751)、『新撰(しんせん)百物語』(1766)、『新説百物語』(1767)、『近代百物語』(1770)など、多くの怪談集がつくられたのである。

 近世初期の怪談集として、荻田安静(おぎたあんせい)の『とのゐ草』(別名『御伽物語』1660)は民間説話の集録を企て、鈴木正三の『因果物語』(1661)は仏教思想の宣伝を図り、浅井了意の『御伽婢子(おとぎぼうこ)』(1666)は中国文学の翻案を試みたもので、それぞれ怪異小説の典型を示すものと認められる。また、作者不明の『曽呂利(そろり)諸国咄』(刊行年不明)はその第一の系統に属するもので、広く各地の怪談を集めており、まさに諸国咄の形態を整えたものといえよう。元禄(げんろく)期(1688~1704)を中心に、井原西鶴(さいかく)の『西鶴諸国ばなし』(1685)は、浮世草子(うきよぞうし)の体裁をとりながら怪談の集録を試みているが、それに対して、西村市郎右衛門(いちろうえもん)の『新御伽婢子』(1683)、『宗祇(そうぎ)諸国物語』(1685)などは、仮名草子の伝統を守りながら怪談集の制作を心がけている。この時期に至って、近世初頭成立の『奇異雑談集(きいぞうだんしゅう)』(1687)も、新たに印刷本として広まっていったが、そのほかに、浅井了意の『狗張子(いぬはりこ)』(1692)、林羅山(らざん)の『怪談全書』(1698)なども、やはり怪談物としてもてはやされている。さらに、宝暦(ほうれき)期(1751~64)を中心に、都賀庭鐘(つがていしょう)の『英草紙(はなぶさそうし)』(1749)が、読本(よみほん)の形態をとりながら、中国小説の翻案に基づいて、怪異小説の新生面を開いたのを受けて、陳珍斎(ちんちんさい)の『檠下雑談(けいかぞうだん)』(1755)、山本格庵(かくあん)『茅屋夜話(ぼうおくやわ)』(1755)、都賀庭鐘の『繁野話(しげしげやわ)』(1766)、『莠句冊(ひつじぐさ)』(1786)など、中国小説系の怪異小説をはじめ、恕翁(じょおう)の『虚実雑談集』(1749)、静観房好阿(じょうかんぼうこうあ)の『諸州奇事談』(1750)、慙雪舎素及(ざんせつしゃそきゅう)の『怪談登志男(としおとこ)』(1750)、烏有庵(うゆうあん)の『万世百物語』(1751)、鳥飼酔雅子(とりがいすいがし)の『著聞雑雑集(ちょもんざつざつしゅう)』(1752)、硯田舎紀逸(けんでんしゃきいつ)の『諺種初庚申(ことぐさはつごうしん)』(1754)、春名(はるな)忠成の『西播(せいばん)怪談実記』(1754)、作者不明の『諸国怪談帳』(1757)、箭角(せんかく)の『怪談録後集』(1757)など、民間説話系の怪談集も相次いで刊行されることとなった。

 そのような気運にのって、上田秋成(あきなり)の『雨月物語』(1776)が現れたのであるが、怪異小説の伝統を受けながら、高度の洗練を加えたものとみられる。その後もまた、読本や草双紙(くさぞうし)や滑稽本(こっけいぼん)はもとより、歌舞伎(かぶき)や講談落語など、かなり広い分野にわたって、いわゆる怪談物がもてはやされたのである。

[大島建彦]

中国の怪異文学

中国には古くから、知識人は「怪力乱神を語るべきではない」(論語)という儒家的なたてまえがあった。しかしその裏では、中国人には怪異を好んで語る癖(へき)が強く、古典文学のなかに「怪異文学」の伝統が一筋の流れとして存在している。

 漢末から六朝(りくちょう)全般にわたり、知識人の間に怪異を語る風潮が大いに流行し、それを記録したものを「志怪(しかい)」とよぶ。ここでは、神仙、精怪、予兆、再生、幽界、幽鬼など超自然的な話が語られ、仏教の流行とともに、仏教説話、仏教的世界観が志怪のなかに浸透し、志怪はますます多彩な内容を備えるに至った。しかし、六朝志怪の基本的性格は、あくまで素朴な記録にすぎなかった。唐代に入って、六朝志怪にみられるような人知を超越した不可思議な事件や現象を素材とし、虚構を構成して人生の諸相を、個性ある作者が物語として展開した「伝奇(でんき)」が生まれ、小説史に一時期を画した。伝奇は、中唐以後に最盛期を迎え、宋(そう)代に入ってからもつくり続けられた。またその一方で、志怪の正統を意識的に確認しようとする『夷堅志(いけんし)』(洪邁(こうまい)著)のような志怪書も著されている。明(みん)代に入ると、瞿佑(くゆう)が『剪灯(せんとう)新話』を著し、多くの読者を獲得し、道教の流行とも相まって、その亜流が数多く出現したが、日本の江戸時代の怪談にも大きな影響を及ぼした。さらに明末には蒲松齢(ほしょうれい)が出て、一大ロマン『聊斎志異(りょうさいしい)』が著され、怪異文学の極致を示した。清(しん)代には、儒家の鬼神否定論に反発して怪談奇談集が数多くつくられたが、袁枚(えんばい)の『子不語(しふご)』、紀昀(きいん)の『閲微草堂筆記(えつびそうどうひっき)』などが代表的作品である。総じて、中国の怪異文学には、じめじめした恐ろしさは感じられず、むしろ超自然的な存在や現象と人間界との交渉を、人間臭く、からっと描くところに特徴があるように思われる。

[竹田 晃]

『柳田国男著『妖怪談義』(1956・修道社/『定本柳田国男集4』所収・1963・筑摩書房)』『今野円輔著『怪談』(社会思想社・現代教養文庫)』『竹田晃著『中国の幽霊』(1980・東京大学出版会)』

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