大黒常是(初代)(読み)だいこく・じょうぜ

朝日日本歴史人物事典 「大黒常是(初代)」の解説

大黒常是(初代)

没年:寛永10.3(1633)
生年:生年不詳
安土桃山および江戸前期の銀吹人(銀貨鋳造師)。和泉国堺の住人で,大黒屋作兵衛常是と称していた。本姓は湯浅氏,またそれ以前には橘氏も称したという。安土桃山時代の堺には諸国から灰吹銀を買い集め,銅を加えて極印を打ち,丁銀として販売する銀商人の組織する南鐐座があり,大黒屋は大黒天像を極印として打つ,その銀商の一員であったと思われる。慶長6(1601)年,徳川家康伏見銀座を設立する際,手本銀を堺の銀商たちから取り寄せたが,大黒極印の常是鋳造の丁銀が銀質優良であったので,銀吹所に指定された。一説には,天正10(1582)年本能寺の変の際,堺にいた家康の本国三河への帰国に助力したため,常是がすでに慶長3年より伏見に招請され,大黒姓も賜ったとされるが,後世由緒書の作為であるらしい。常是の鋳造した丁銀は法定銀として使われ,秤量貨幣であった銀貨を500目ずつとりまぜて包封する役儀も負った。銀吹による収入は吹賃(吹高の0.5%)と銀座座分配当(銀座収入の3%)であり,別に買灰吹銀による自家営業収入があった。常是が銀吹人にとり立てられると,銀座人とともに伏見に銀座町が形成された。慶長11年,駿府にも銀座が設立され,次男長左衛門常春を出向させ,銀吹き,銀改めを行わせた。伏見銀座は同13年,京都に移転し,それを機に長男作右衛門常好に業務をまかせた。駿府銀座も同17年,江戸に移転したが,銀座人,銀吹人とも江戸へは京都から勤番交替であった。ただし,次男常春が元和年間(1615~24)に江戸新両替町に屋敷を拝領し,以降,江戸家として子孫が世襲した。常是の時代は江戸幕府貨幣制度の創成期にあり,鋳造量も多かったため,おのずから収入も多かったが,平時には減少するシステムであった。度々経営危機に見舞われたが,幕末まで江戸,京両家とも役用を勤めており,初代常是が相当な堅実的経営基盤を築いたものとみなければならない。<参考文献>田谷博吉『近世銀座の研究』,日本銀行調査局編『図録日本の貨幣』3巻

(岩橋勝)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大黒常是(初代)」の解説

大黒常是(初代) だいこく-じょうぜ

?-1633 織豊-江戸時代前期の銀貨鋳造師。
堺(さかい)で銀吹きをいとなむ。徳川家康から大黒の姓をあたえられ,慶長6年(1601)伏見にもうけられた銀座の銀吹役をつとめた。寛永10年3月5日死去。前名は湯浅作兵衛

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