大粟山(読み)おおあわやま

日本歴史地名大系 「大粟山」の解説

大粟山
おおあわやま

鮎喰あくい川の上・中流域神山町一帯に比定される。大粟郷、単に大粟ともみえ、中世には一宮領のさん分が設定されていた。大粟上おおあわかみ山と大粟下山とに分れ、前者近世上山かみやま(現神山町上分・下分)、後者は近世の神領じんりよう村・鬼籠野おろの村・阿川あがわ村・広野ひろの村に比定される。近世に入っても広域地名として大粟山と称されたが、慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図には大粟谷とみえる。

〔中世〕

久安二年(一一四六)七月一一日の河人成俊等問注申詞記(愚昧記仁安二年冬巻裏文書)に「大粟山住人安宗」とみえ、同年二月、京都の法勝ほつしよう(現京都市左京区)の末寺延命えんめい(現徳島市国府町延命の常楽寺か)所司は、同月一四日に一宮司河人成高の舎弟成俊が庄内に乱入し放火・狼藉したと訴えた。その際、安宗は成俊と紛争を起こし逃亡した。成俊は安宗を捕らえるため従者を遣わして安宗の姉妹である快順の妻を召籠め乱暴した。そののち成俊は出頭した安宗から牛・板等を差出すとの解文を責取って釈放したという。元亨三年(一三二三)三月二三日、阿波国一宮領の大粟郷および三好みよし郷は勅願料所として祇園社執行晴喜に相伝を許され、四条隆蔭が管領することとなった。しかし領家の山科右衛門督が綸旨を下され、鎌倉幕府から下地を下されたと地頭が主張したため、晴喜は拝領を辞退したという(祇園社家条々記録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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