大田尾村(読み)おおたおむら

日本歴史地名大系 「大田尾村」の解説

大田尾村
おおたおむら

[現在地名]高来町大戸名おおとみよう

藤田尾ふじたお村の南西に位置し、南西部で深海ふかのみ川が有明海に注ぐ。太田尾とも記される。天正一五年(一五八七)一〇月龍造寺家晴の肥後出陣中をねらってたか(現諫早市)を奪回しようとした西郷信尚に対して旧領内の宇木うき(現同上)・大田尾などの百姓らも呼応して各所代官を襲ったという(西郷記)。江戸時代は諫早いさはや郷に属し、肥前佐賀藩親類同格の諫早家領。慶長国絵図に「長田ノ内 大田尾」とあり、正保国絵図では大田尾村として高六石余。元禄国絵図でも高六石余で、玄梁院代配分村付帳では地米高四五石余(大小配分石高帳でも同高)

大田尾村
おおたおむら

[現在地名]三角町大田尾

東は小田良おたら村、西は三角浦みすみうら村、南は波多はた村、北は有明海に面する。村の中央に大川おおかわ南東穴田あなだ、南西に大別当おおべつとう北東西矢答にしやごたえ、西に仏天川ぶつてんがわなどの字地がみえる(郡村誌)。応永一一年(一四〇四)一〇月一〇日の肥後郡浦庄地検帳(阿蘇家文書)に「大多和」とみえ、郡浦こおのうら庄に属した。元禄国絵図には「波田村之内大田尾村」とあり、近世は郡浦手永に属し、「国誌」には「大多尾村」とあり「小久保村中道村等小村アリ」と記す。天保八年(一八三七)の郡浦手永略手鑑によると竈数五九・人数二六三・役男六八、本方高九七石九斗余、田三町二反余・畑五町三反余、新地九反余、諸開一町九反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報