大王村(読み)だいおうむら

日本歴史地名大系 「大王村」の解説

大王村
だいおうむら

[現在地名]沖美町岡大王おかだいおう

岡村の東南にあり、東は才越さわごえ峠を経て鹿川かのかわ(現能美町)に通じる。東北に宇根うね山があり、南西瀬戸内海に面する。沿岸部の小平地と丘陵緩斜面に集落が展開する。当地一帯はもとおき浦と称された。「能美島志」(専念寺蔵)に「大生村」とみえ、「芸藩通志」は「昔は大玉村と書といへり」と記す。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では「のふミ島にし」に含まれる。広島藩蔵入地。寛永一五年(一六三八)の地詰帳(「大柿町史」所収)では「沖浦大王・岡村」とみえ、前記「能美島志」に「分大生岡村」とある。

大王村
たいおうむら

[現在地名]能生町大王

能生川下流右岸の段丘上にあり、下流の海岸部に能生村があり、東の上流鷲尾わしお村に接する。慶長三年(一五九八)の「頸城郡西浜能生組之内 たいわう村 佐少村 大道村」の検地帳(清水敏雄氏蔵)があり、宛先は「能生組 躰王村肝煎 太郎兵衛」となっている。これによれば三村合計して田方二町二反大一一歩・分米三〇石九斗余、畑方二町一反半八歩・分米一〇石四斗余で、大王村に七石八斗余の永代荒があり、この分は慶長二年の河村検地帳に記されているとある。このほかに小物成として、青苧四貫九〇〇目があり「但此内半分百姓ニ被下候由御百姓申候」とある。正保国絵図に村名があり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳に大王村改出高三九石三斗余とある。

大王村
だいおうむら

[現在地名]加茂川町富永とみなが

長尾ながお村と谷を隔て北東に位置する。標高三〇〇―三五〇メートルの台地上に展開する村。寛永備前国絵図に村名がみえ、高一六三石余。寛永七年(一六三〇)の検地では朱印高のほか改出高六二石余(貞享元年「津高郡高目録」池田家文庫)。「備陽記」によると田畠一八町六反余、家数四一・人数一九七。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高二八七石余、蔵入と家臣三名の給地。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報