大浜村(読み)おおはまむら

日本歴史地名大系 「大浜村」の解説

大浜村
おおはまむら

[現在地名]碧南市権現ごんげん町・みや町・若松わかまつ町・みさき町・入船いりふね町・伊勢いせ町・権田ごんだ町・西浜にしはま町・浜田はまだ町・塩浜しおはま町・にしき町・築山つきやま町・浜寺はまでら町・音羽おとは町・なか町・羽根はね町・本郷ほんごう町・中松なかまつ町・石橋いしばし町・沢渡さわたり町・大浜上おおはまかみ町・天王てんのう町・野田のだ町・松本まつもと町・道場山どうじようやま町・福清水ふくしみず町・浅間あさま町・籠田かごた町・浜尾はまお町・住吉すみよし町・千福せんぶく町・新川しんかわ町・山神やまがみ町・鶴見つるみ町・相生あいおい町・松江まつえ町・田尻たじり町・六軒ろつけん町・久沓くぐつ町・丸山まるやま町・山下やました町・金山かなやま

三河湾に突出た半島状の大村。北は高浜たかはま(現高浜市)、東は鷲塚わしづか村・棚尾たなお村に接し、南はしじみ川をもって前浜まえはま新田と境する。

西海岸沿いに数ヵ所の貝塚が発見され、玉津浦たまつうら貝塚は弥生式後期前半に比定される。「和名抄」では幡豆はず郡大浜郷に属するが、近世矢作川の改修によって碧海へきかい郡に編入、志貴しき庄もこの地域に及ぶ。「富士歴覧記」に「緒川より舟にて三河へ行侍しに、(中略)大浜といふ所へ舟よせて」とあり、応永一六年(一四〇九)の「熊野道者日記」(大乗院記録)に「一所大浜郷」と記す。

大浜村
ほーまむら

[現在地名]石垣市大浜おおはま

真栄里まいざとう村の東にある。南北に長く、北高南低の地勢で、南は宮良みやら湾に面し、南部を宮良めーら川・磯辺いそべ川が南流する。北は於茂登うむとう岳南東に連なる山地。八重山島年来記の弘治一三年(一五〇〇)条に大浜村のアカハチホンガワラが王府に弓を引いたとあり、宮良湾西岸に面した集落の後背丘陵にはオヤケアカハチの拠城ともいわれるフルストばる遺跡(国指定史跡)がある。

近世を通じて大浜ほーま間切のうち。両島絵図帳の高は八〇三石余で、八重山島中で最も高い。崇禎元年(一六二八)の三間切制当時、フルスト原遺跡崖下のカンドーばる大城ふーすく村、現大浜集落北東端のカーシィンヤーとよばれる海岸付近に崎原さきいばる村があり、大浜間切に属した(八重山島年来記)。大城村には尚質王一一年(一六五八)に与人が配置されている(球陽)。カンドー原には大底ふーすく御嶽があり、一七―一八世紀の集落遺跡であるカンドー原遺跡がある。大底御嶽は「琉球国由来記」に大城御嶽と記され、神名は大城神根付、イベ名はモトノキンキサノキンとある。理由は不明だが乾隆一五年(一七五〇)安良やつさ村創設に際し、同村に分祀されている(大波之時各村之形行書)。カーシィンヤーは正保国絵図に「さきはる崎」とみえ、薩摩から渡来した神を祀るという崎原さきいばる御嶽がある。岳昌姓小宗家家譜によると七世致御は崇禎年間に崎原目差を勤めた。康熙一七年(一六七八)検使恩納親方の仕置で八重山の与人・目差が削減されることになり、崎原・大城両村は空席になった時点でこれを廃止し、崎原村は当村と合併、大城村は登野城とうぬすく村役人の管轄とすることになった。

大浜村
おおはまむら

[現在地名]福江市小泊町おどまりちよう浜町はまちよう増田町ますだちよう

本山もとやま村の南西にあり、西部を南西流する増田川が富江とみえ浦に注ぐ。南東部に小泊浦、西部に翁頭おうとう山・たか岳がある。「おはま」ともいう。男女だんじよ群島は当村に属する。安貞元年(一二二七)宇久うく(現宇久町)から乙宮おとみや大明神が当地に移され、元亨元年(一三二一)真言宗元亨げんこう寺が創立、明応四年(一四九五)熊野権現が創建されたと伝える。江戸時代は福江藩領大浜掛に属する。慶長国絵図(松浦家本)に大浜村とみえ、高六八八石余。万治二年(一六五九)惣高積之帳では大浜村として正保国絵図の高二一五石余、今高一千五〇五石余で、大浜主水の知行分一千四五二石余のうち。万治年間とされる五島一円惣高帳では高五二石余、うち蔵入地四五石余・寺社領六石余、ほかに大浜主水の知行分のうち高四〇二石余が大浜村・野々切ののきれ村に置かれていた。大浜主水は福江藩の重臣(藩主五島盛利と義兄弟)で、大浜野々切村・おう島・あか島、大泊村(小泊か)宇久梅うくうめ村・宇久靭木ゆきのき村・宇久野中うくのなか村・宇久田尾うくたお(現宇久町)の八ヵ村に知行があった。主水は盛利と対抗する勢力をもっていたといわれ、大浜主水事件と称される家中騒動を起こしている。小泊の廟上びようのうえに大浜家の墓があり、当地を名字の地としたと考えられる。

大浜村
おおはまむら

[現在地名]今治市大浜

現今治市の北端の村。海岸に沿って南北に細長く、大部分は一〇〇メートル前後の丘陵地で、平地は乏しい。北端は瀬戸内海国立公園のいと(九七メートル)で、来島くるしま海峡が展望される。北と東は岩石海岸で来島海峡に面するが、砂場さば・大浜・みなとの三漁港があり、小浦こうら参勤交代に利用されたことがある。南は石井いしい村・大新田おおしんでん村、西は波止浜はしはま村・高部たかべ村に接する。田畑とも山地では赤土、沿岸では砂質で干害を受けやすい。東方沖合に広瀬磯・鍋ヶ瀬磯・安摩瀬あまぜ磯などの魚礁があり、白石磯には灯台がある。

伊賀いが山から糸山の全域には、県下最大の相の谷あいのたに前方後円墳をはじめ、多数の古墳が分布している。忽那一族軍忠次第(忽那家文書)に「延元五年二月十二日 大浜城後措」、また「大浜城兵粮沙汰事」とあり、忽那氏が越智おち郡の宮方に協力したことがわかる。大浜城の位置は不明。

大浜村
おおはまむら

[現在地名]びわ町大浜

南浜みなみはま村の北、あね川河口部の北岸に立地。もと西河内にしかわち河道浜かわみちはまの一部で、河内北浜とよばれた。天文一七年(一五四八)浅井久政が、「竹生島大聖院大工職」を富田とんだの大工の代りに当地の新右衛門に任せようとしているが、富田との間で相論が続いたためか、同二三年になっても竹生島大聖院の菩提坊が出来上らなかったため、先の大工職を改めて富田側へ戻している(「浅井久政書状」阿部文書など)。元亀四年(一五七三)六月一八日、新右衛門は「竹生島大祥院、東蔵坊、法大坊ツ合三」の大工職を、また天正年間(一五七三―九二)には「大浜大工」松本新介が竹生島大工職等を富田兵衛太郎に譲渡している(同文書)。浅井郡検地帳(東浅井郡志)によれば、天正検地による高は一〇一石余、慶長七年(一六〇二)の検地による高は二五八石余。

大浜村
おおはまむら

[現在地名]土佐清水市大浜

松尾まつお村の北方、足摺あしずり半島西岸の臼碆うすばえから大きく北に湾入した湾奥に位置する。鼻前はなまえ七浦の一。「土佐州郡志」は「大浜浦南向 東西四町余南北三町余、海浜西限弘浦、東限鹿柴谷、戸凡二十余、此浜有黒色砂、曰大浜黒」と記す。

天正一七年(一五八九)の大浜之村地検帳によれば検地面積三町三反余、屋敷数一三うち居屋敷一〇。観音堂(二間四面、茅葺)がある。三分の一強が羽生右衛門大夫の給地で、右衛門大夫は一反余の土居に居住する。慶長二年(一五九七)の秦氏政事記(蠧簡集)に大浜浦刀禰がみえ、江戸時代にも浦方。天和三年(一六八三)の浦々水主船数定書によると水主数一二、船数三(廻船一・漁船二)。元禄地払帳によれば本田高三五石余(蔵入地)、新田高一八石余、うち一六石九斗余は中村窓左衛門領知、一石八斗余は貢物地。

大浜村
おおはまむら

[現在地名]豊浜町大浜

大崎下おおさきしも島の西南端に位置し、東は山を負って久比くび村・大長おおちよう沖友おきとも(現豊町)に接し、西は瀬戸を挟んでとよ島に対する。南方海上にいつき島がある。なお三角みかど島の西端部は大浜村に属す。「芸藩通志」には「広十三町、袤廿一町」とある。宝徳三年(一四五一)七月日付の小早川熙位譲状写(小早川家文書)に「伊予国三嶋七嶋之内下嶋之事」として「一、豊島・大浜ニアル入地」とあり、中世には伊予国に属していたと考えられる。

大浜村
おおはまむら

[現在地名]因島市大浜町

因島の北端東側に位置し、東北海上にむかい島を望む。三方を山に囲まれ、西は重井しげい村に接する。寛永一五年(一六三八)に初めて地詰された村で、正徳二年(一七一二)の「所務役人頭庄屋郡邑受方記」には高二七五・四八八石とある。安永三年(一七七四)の村建リ実録帳(「因島市史」所収)によると、畝総数三〇町五反余、高二七一・三六四石、家数一〇八・人口五〇二、新開は畝数五反七畝余、高四・一二四石。「芸藩通志」では畝数三一町一反余で同高、家数一五八・人口七九五、牛三〇、船二一(五〇石以下)

大浜村
おおはまむら

[現在地名]臼杵市大浜

硴江かきえ村の北、臼杵川河口左岸の臼杵湾岸に位置する。慶長二年(一五九七)臼杵庄検地帳写(渡辺家文書)に村名がみえ高五六石余、うち田方二七石余・畑方二九石余、村位は上。同一一年の惣御高頭御帳では藤田村組に属し同高、村役人に市亮・縫殿を記す。寛永一一年(一六三四)の郷村高付帳(臼杵藩政史料)では井村組に所属、のち佐志生組に属した(万用集)正保郷帳では高八四石余とあるが、この高は中津浦なかつうら村の高を合せたものと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報