大平寺村(読み)たいへいじむら

日本歴史地名大系 「大平寺村」の解説

大平寺村
たいへいじむら

[現在地名]能生町大平寺

寺山てらやま村の北、能生川河口の左岸うろこ崎の段丘上に立地。もと能生白山権現(現白山神社)別当大平寺領で、その寺百姓村であった。万里集九の「梅花無尽蔵」長享二年(一四八八)一〇月一七日条に「雪中自有間河能生、村名、有台寺号太平」とあり、同月二二日に大平寺に滞留している。現在寺はないが、明治初年その旧跡から小さい石に、南・無・阿などの文字を刻したものが出土し、一字一石の経石と思われる。広い段丘上の能生町を一望に収める絶好の位置に寺跡があり、真言宗で二〇余の院坊と七堂伽藍を有し、五〇余の僧坊、七五ヵ所の末社・摂社と三千石の領地を有していたと伝える。

大平寺村
たいへいじむら

[現在地名]東部町大字本海野もとうんの

海野宿の北千曲川右岸の段丘上一帯の村。慶長五年(一六〇〇)の上田御領分惣貫高寄帳(西沢弁吉氏蔵)に「高五拾八貫百文 大平寺村」とあるのが初見。寛永一七年(一六四〇)大平寺村高帳(小野文書)に馬場先・新海・かけいほり・陣之内・ほつけ寺・きつせう寺・大門・大門口等の地名があり、この一帯は鎌倉時代から戦国末まで土豪海野氏の居館跡と推定される。

真田氏は天正一一年(一五八三)からの上田城下建設に際し、大平寺・海野両村の住民を移住させた(上田市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報