大島浦(読み)おおしまうら

日本歴史地名大系 「大島浦」の解説

大島浦
おおしまうら

[現在地名]新居浜市大島・黒島くろしま

ひうち灘の南部にある周囲六三町余の大島と、その南西海上五町を隔てた黒島とからなる。海を隔てて南は阿島あしま村と多喜浜たきはまに、西は垣生はぶ村に接する。大島はほぼ中央に神田じんで(一四六・五メートル)があり、黒島は最高五七メートルで、両島とも丘陵状の地勢で畑地のみ。昔大島を大黒だいこく島とよび、黒島は無名であったのを、大黒の字を割って大島・黒島と名を付けたという(西条誌)。しかし「延喜式」神名帳に「黒嶋神社」の記載があるところからみて、一〇世紀以降には島名が付けられていたと思われる。

島名の初見は、嘉元四年(一三〇六)六月一二日付昭慶門院御領目録(竹内文平氏所蔵文書)のなかに「伊予国 新居大島」とある。続いて応永七年(一四〇〇)八月、足利義満が細川頼長に伊予国等の所領を安堵した書状(細川文書)にも「伊予国散在徳重新大嶋事」とみえる。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)新居郡の項に「大嶋村 日損所、小松林有」とある。

大島浦
おおしまうら

[現在地名]串本町大島

串本浦の東向い、海上に浮ぶ大島の西端にある。「続風土記」に「村中の出崎艮を塞ぐを以て賈艦商舶の泊する最上の大湊とす」とあり、廻船の寄港地で古くより避難港・風待港として潮懸りする舟の出入りで賑った。てら(狼烟山)西麓の海岸に漁家・宿屋・遊郭が密集し、東は樫野かしの浦、南東は須江すえ浦。島名は郡内最大の島であることにより、かつては島内三村が一村で大島浦と称したとの説がある(続風土記)

慶長検地高目録には大島村と記され、高五四石余。

大島浦
おおしまうら

[現在地名]大島村大島

大島村の東部にあり、宗像七浦の一とされる(津屋崎町史)。慶長一〇年(一六〇五)八月二五日の黒田長政掟書(新訂黒田家譜)に「大嶋」がみえ、浦として把握されていた。元和九年(一六二三)の黒田忠之浦并水夫等目録(松本家文書)によると、大島浦分は水夫五八人・丸木船一五艘。明和九年(一七七二)九月の大嶋浦商船石数並びに漁船書上帳(今林家文書)では商船五(五五〇石積一・七〇石積一・五〇石積以下三)、漁船九三。安永五年(一七七六)の福間触浦々御菜銀並夫銀書上帳(同文書)によれば商船八艘(石数四三六石)の御菜銀九五匁余、漁船六六艘の御菜銀三三〇匁、小伝間三艘の御菜銀六匁。

大島浦
おおしまうら

[現在地名]大島町 大島・うらなど

江戸時代、大島にあった浦湊。慶安二年(一六四九)の肥前国道法帳に船路として「大島浦」とみえ、嘉喜かき(現崎戸町)方面などと結ばれていた。「大村郷村記」によれば、大島浦・かしの浦・田の浦があり、大島浦は横一町四〇間・入五町・深さ五尺で、東風・南風に船繋ぎが良好という。四面すべて磯であるが漁師は住せず、水主役も煎海鼠請負もなかったが、磯手運上、鰤網一株運上、雲丹(一斗)を納めていた。

大島浦
おおしまうら

[現在地名]宇和島市蒋渕

蒋淵こもぶち浦の西南端の集落。向いにちぎり島がある。契島は伊能忠敬の「日本実測録」に「契島、周廻一十八町五十一間」とある小島

「先祖大島浦江新浦被仰付、以来御書立并ニ家伝文通記」(清家文書)によると、大島浦は江戸時代の初期、寛文九年(一六六九)一一月にできた新浦である。当浦と契島との間の水道が好漁場であるため、北灘きたなだ(現北宇和郡津島町)の庄屋清家氏が開発を計画し、同じ吉田藩領である下三ヵ浦(北灘・蒋淵・下波したば)の村民が巨大な石垣を築いて土地を造成し、家屋を建て集落を形成し、同一一年から鰯網一帖の操業を開始した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報