大岡寺村(読み)たいこうじむら

日本歴史地名大系 「大岡寺村」の解説

大岡寺村
たいこうじむら

[現在地名]亀山市太岡寺たいこうじ

落針おちばり村の北西小野おの村の東にあたる。この両村の間が大岡寺縄手(畷)一八町といわれ(五鈴遺響)、「亀山御領分雑記」によれば「往還縄手長四百壱間、但高ふミ三尺」とある。左右は松並木となっていた。「わしが思いは大岡寺 ほかにき(木・気)はないまつ(松・待)ばかり」と里謡にもある(亀山地方郷土史)神戸かんべ七郷の一で、関谷せきだに二四郷の一に数えられる(九九五集)。永禄五年(一五六二)永明寺領川上祠堂納(鈴鹿郡関町瑞光寺蔵)によれば、常住方納之分として作人「(太)岡寺ノ源太夫」に納分六石があり、同寺塔頭と推定される慶松院「分地納之本帳」(祠堂納裏文書)には

<資料は省略されています>

という断片記録がみえる(鈴鹿関町史)

大岡寺村
おおかじむら

[現在地名]日高町大岡おおおか

河江かわえ村の北西、大岡おおおか(六六三・六メートル)東側中腹の大岡おおおか寺の門前村。同寺は古代に開かれたと伝える真言宗古刹。また古代には大岡山そのものが信仰の対象とされて大岡神が祀られていた。江戸時代の領主変遷は慶長一八年―元和五年(一六一三―一九)間を除き(上記期間も出石藩領)、天保七年(一八三六)まで宵田よいだ村に同じ。同年幕府領となり(「御用部屋日記」など)幕末に至る。寛永一六年(一六三九)の知高帳によると高六石余。出石封内明細帳でも同高(拝領高五石八斗余・改出高八斗余)。「但、諸役用捨、上中下盛無之、反別不相知」とあり、この村が大岡寺の寺領的扱いであったことが推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報