大安寺村(読み)だいあんじむら

日本歴史地名大系 「大安寺村」の解説

大安寺村
だいあんじむら

[現在地名]岡山市大安寺東町だいあんじひがしまち大安寺中町だいあんじなかまち大安寺西町だいあんじにしまち大安寺南町だいあんじみなみまち一―二丁目・矢坂東町やさかひがしまち矢坂本町やさかほんまち矢坂西町やさかにしまち東野山町ひがしのやままち野殿東町のどのひがしまち西崎本町にしざきほんまち西崎にしざき二丁目・高柳西町たかやなぎにしまち西野山町にしのやままち

矢坂山の北麓に位置し、東は高柳村下伊福しもいふく村、西はささ川を限り、対岸は尾上おのうえ村など、南は野殿のどの村。枝村に正野田しようのだ・矢坂があり、矢坂地内を山陽道が通り、茶屋があった(備陽記)。矢坂山頂には富山とみやま城跡がある。建久九年(一一九八)一二月の後鳥羽院庁下文(東大寺続要録)に大安寺庄とみえ、同庄は奈良東大寺領野田のだ庄の西にあった。寛喜三年(一二三一)四月二五日の後堀河天皇宣旨(門葉記)によれば、大安寺庄は比丘尼観如の相伝の私領であったが、同月二〇日、観如から養君綾小路無品親王(尊守)家に譲られた。応永二五年(一四一八)備前国に京都東寺の造営棟別が課せられた際、ことごとく棟別を取られる在所として大安寺がある(「備前国棟別銭注文案」東寺百合文書)

寛永備前国絵図では高一千六八七石余、ほかに大安寺のうちとして「矢(か)村」(高付はなし)の記載がある。

大安寺村
だいあんじむら

[現在地名]湖北町大安寺

南速水みなみはやみ村の南東に位置する。かつて大安寺という大寺があったという(輿地志略)。永享一一年(一四三九)四月二五日の長浜八幡宮塔供養奉加帳(東浅井郡志)によれば「大安寺」が一貫文を寄進しているほか、同奉加帳の引馬次第に「大安寺領主殿 一疋鞍置」「大安寺公文殿 一疋鞍置」「大安寺下司殿 一疋鞍置」とみえる。元亀二年(一五七一)堀秀村が「大安寺一円」などを島久右衛門に与えている(島記録)

大安寺村
だいあんじむら

[現在地名]奈良市大安寺町

佐保川東方にあたり、大安寺の所在地。建久八年(一一九七)一〇月九日の藤井仲子等連署配分状(東大寺文書)に「大和国添上郡七条四坊十六坪丑寅角 字期麻宇」とあるが、「期麻宇」は胡麻堂(護摩堂)の誤記で現小字ゴマドであろう。永仁二年(一二九四)の大仏灯油料田記録に「大安寺ノ北ミヨウトバカ」とあり、杉山すぎやま古墳をさすものか。「大乗院雑事記」康正三年(一四五七)七月一九日条には「去十三日、上北面専親 大安寺ノ東池ヨリ双頭蓮ヲ取進 希代ノ蓮也、今日家門一条殿ニ上進之、去年相国寺ノ山門ノ前ノ池ニ開了、一天下ノ為見物了 又去月末東大寺八幡社ニ双頭蓮ヲ立之云々 或人云室町殿ヨリ東北院ニ給之 東北院八幡ニ進之云々」とみえる。

大安寺村
だいあんじむら

[現在地名]田原本町大字大安寺

大木おおぎ村の西に所在。天平一九年(七四七)大安寺伽藍縁起並流記資財帳に記す大倭国五ヵ所寺領の一に「十市郡千代郷」とあるが、大安寺の村名はこの地が大安寺領千代郷内に含まれていたことを示すものであろうか。「姓氏録」大和神別条の服部連の居地と伝える。

中世、現大字大木にかけて柿森かきのもりという集落があった。十市氏被官の南柿森氏が箸尾氏に生害させられ、十市氏が箸尾氏に報復したことが「多聞院日記」元亀二年(一五七一)六月一二日条にみえ、その際家が焼かれている。

大安寺村
だいあんじむら

[現在地名]長野市七二会なにあい 大安寺

さい川の北岸、北に山を負い大町おおまち(現県道大町線)に沿った山村集落。

南北朝時代に建立された大安寺を中心に集落が発達した。村名の初見は慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)で「弐百壱石四斗壱升八合 大安寺村」とあり、元禄郷帳の添目録(大日方文書)に枝村は柴宮しばみや村・善福寺ぜんぷくじ村の二村を記す。

大安寺村
だいあんじむら

[現在地名]新津市大安寺

阿賀野川左岸の自然堤防上に位置し、北西なか新田村。元和元年(一六一五)に徳永長兵衛が満願寺まんがんじ村の荒地を開発して立村と伝え(中蒲原郡誌)正保国絵図には新発田藩領として村名が載る。寛文四年(一六六四)の沢海藩領分郷村高辻帳には「満願寺村之内大安寺村」とあり、高六八石一斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報