大堤村(読み)おおつつみむら

日本歴史地名大系 「大堤村」の解説

大堤村
おおつつみむら

[現在地名]総和町大堤

古河こが町の南に所在。東は大山おおやま(現在は水田)を挟んで下辺見しもへみ村。他の三方台地で、南北に狭小な村。西部を日光街道が南北に貫通する。南部と西部はほとんど平地林であった。鮭延けいえん寺に熊沢蕃山の墓所があることで知られる。大山沼を望む新田裏しんでんうら貝塚から縄文土器片などが出土。鮭延寺遺跡は古墳時代と確認されている。中世下河辺しもこうべ庄に属し、戦国期には公方の支配を受けたと思われ、延宝八年(一六八〇)の鮭延寺の鐘銘に「東路総之下州葛飾郡下河辺荘古河郷大堤村」とある。

大堤村
おおづつみむら

[現在地名]姫路市林田町大堤はやしだちようおおづつみ

伊勢いせ谷の北端大津茂おおつも川最上流部に位置し、揖東いつとう郡に属する。南は上伊勢村、北は宍粟郡三坂みさか(現安富町)、東は飾西しきさい護持ごじ(現夢前町)。慶長国絵図に「大つゝミ村」とみえ、慶長検地では高一四二石余(「池田輝政慶長検地記録」森川家文書)。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)林田藩領となり幕末に至る(正保郷帳・「寛文朱印留」など)

大堤村
おおつつみむら

[現在地名]松尾町大堤

猿尾さるお村の南西に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一二五石。寛永一七年(一六四〇)高岡藩領となったとみられる。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では八田組に属し、高二三〇石。延宝三年(一六七五)高岡藩主の分家旗本井上領となり、幕末に至る(「寛政重修諸家譜」、旧高旧領取調帳など)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高一六〇余石、家数一九。嘉永二年(一八四九)には鹿狩人足一〇人を出している(「鹿狩御用添触」伊藤家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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