多紀元胤(読み)たきもとつぐ

改訂新版 世界大百科事典 「多紀元胤」の意味・わかりやすい解説

多紀元胤 (たきもとつぐ)
生没年:1789-1827(寛政1-文政10)

江戸後期の幕府医官。考証派漢方医。多紀元簡(もとやす)(桂山)の三男,多紀家第8世。字は奕えんき)また紹翁,通称は安良のち安長また安元。柳沜(りゆうはん)と号した。文化2年(1805)12月,17歳で将軍家斉に初めて謁見,同8年3月家督相続して寄合医師医学館督事となり俸30人扶持を給せられた。文政5年(1822)12月法眼に叙せられ翌年8月法親王に随従して日光に詣でた。同10年6月3日病没,39歳。長男元昕(暁湖)が後を継いだ。著書は多いが,父元簡の遺志を継ぎ漢晋以降清の道光年間に至る3000余種の医書を考証した《医籍考》80巻(未刊)は著名
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「多紀元胤」の解説

多紀元胤 たき-もとたね

1789-1827 江戸時代後期の医師。
寛政元年3月1日生まれ。多紀元簡(もとやす)の3男。大田錦城儒学を,父に医学をまなぶ。文化8年家督をつぎ幕府の医学館督事となった。文政10年6月3日死去。39歳。江戸出身。幼名は弥生之助。字(あざな)は奕禧。通称は安良,安元。号は柳沜。編著に「医籍考」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「多紀元胤」の解説

多紀元胤 (たきもとつぐ)

生年月日:1789年3月1日
江戸時代後期の寄合医師
1827年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報