多井畑村(読み)たいのはたむら

日本歴史地名大系 「多井畑村」の解説

多井畑村
たいのはたむら

[現在地名]須磨区多井畑・多井畑南町たいのはたみなみまち多井畑東町たいのはたひがしまち高倉台たかくらだい四―八丁目・横尾よこお九丁目・ともおか一―五丁目・同七―八丁目・南落合みなみおちあい一―二丁目・りゆうだい一丁目

鉄拐てつかい山の北、塩屋谷しおやたに川上流部に位置する。南は西須磨村、北から西にかけては播磨明石郡に接する。慶長国絵図には東須磨村で山陽道から分岐して山越えで当村に至り、塩屋(現垂水区)を経由して明石へと向かう多井畑越が描かれている。須磨から海岸沿いに明石へ向かう道は山が海に迫った難路であるため、古代の山陽道は多井畑を経由したとして、須磨関を地内字関末せきすえに求める説がある。寿永三年(一一八四)二月六日夜、一ノ谷合戦を目前にして搦手から攻めていた熊谷直実らは先駆けをねらって「としごろ人もかよはぬ田井の畑といふふる道をへて」一ノ谷の波打際へ出ている(「平家物語」巻九)。貞応元年(一二二二)八月日の大中臣景盛愁状案(大中文書)によれば、景盛が長田神社(現長田区)神主職の嫡々相続を訴えたとき兵庫下庄地頭はじめ近隣の村々の長者刀禰とともに「田井村」の刀禰草部が景盛の主張に対して保証の署判を加えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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