塚村(読み)あしづかむら

日本歴史地名大系 「塚村」の解説

塚村
あしづかむら

[現在地名]城島町芦塚

下田しもだ村の北、筑後川下流右岸にある。筑後川の旧流路が北に屈曲して肥前国に入り込み、北・東・西は肥前国三根みね郡に接する。古川(現開平江川)が当村の東を流れる(在方諸覚書)中世は三潴庄とう郷の内で、葦塚あしづか村などとみえる。文禄四年(一五九五)の知行方目録に「あしつか村」とあり、高六二〇石余・葭方五九石余。また同五年三月八日の寺社領高覚書(立花家文書)にみえる常里つねさと村六一八石余は、中世の恒里つねさと(恒里名)後身と考えられる。慶長一三年(一六〇八)「アシツカ村」の百姓下田村とともに汐堤・川堤の普請を命じられている(同年一二月一三日「荒川勢太夫・清水佐右衛門連署奉書」歴世古文書)。同年、口分田甚右衛門手永所の「あしつか村」に一〇石の扶助米が与えられた(同年一二月三〇日「田中吉政扶助米宛行状」梅津文書)

塚村
つかむら

[現在地名]彦根市稲里町いなざとちよう

荒神こうじん(二六一・五メートル)の南麓、顔戸ごうど川東岸に位置。地名は平将門の塚、あるいは市野辺王子の塚があることによるという(「輿地志略」など)。天正一六年(一五八八)九月、豊臣秀吉は従来の寺領を没収した代償に、長命ちようめい(現近江八幡市)に「山崎内百石」を寄付(長命寺文書)、江戸幕府も元和三年(一六一七)八月「平流郷之内百石」を同寺領として認めているが(寛文朱印留)、この長命寺領一〇〇石は当地にあり、幕末まで存続した。村名は寛永石高帳にみえ、村高は長命寺領の一〇〇石のみ。

塚村
つかむら

[現在地名]藤橋村塚

櫨原はぜはら村の北西、揖斐川沿いに立地する。北部のかんむり峠・檜尾ひのきお峠・高倉こうくら峠を越えると越前国に至る。櫨原村三軒屋さんげんや近くの崖で足を滑らせて一命を失った二条天皇の墓があるという伝説がある。当地白山神社蔵の神像墨書銘に興国元年(一三四〇)一一月晦日の紀年がある。永享六年(一四三四)八月一五日の徳山定長渡状(徳山文書)に「つかの百姓縫殿助方」とあり、「くないかあとの事」のほか、熊皮銭三〇〇文・料足一〇〇文・夫銭一〇〇文などが譲られたようである。慶長一四年(一六〇九)検地帳(塚区有文書)では反別三町五反余、屋敷数二二となっている。物成取覚(赤座文書)によれば、寛永六年(一六二九)の定米二一石余を銀四二二匁余で納めている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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