埴生庄(読み)はぶのしよう

日本歴史地名大系 「埴生庄」の解説

埴生庄
はぶのしよう

現成田市北西部からさかえ町にわたる一帯に比定される。埴生郡の郡名を号するが、郡内に成立した埴生西はぶさい条・遠山方とおやまかた郷・河栗かわぐり郷などを除く地が庄園として成立したものと考えられる。建久年間(一一九〇―九九)香取神宮遷宮用途注進状(香取文書)に埴生庄とみえ、遷宮作料米二〇〇石を負担している。香取神宮へのこうした負担は寛元元年(一二四三)には同社楼門が埴生・印西いんざい所役として(同年一一月一一日「造宮所役注文写」同文書)、康永四年(一三四五)には同じく楼門が「埴生」庄所役として課せられるなど(同年三月日「造宮所役注文」同文書)、南北朝期まで繰返された。神代本千葉系図によれば、上総常澄の子に埴生六郎常益がみえ、平安末当庄は上総氏の支配下にあったと思われる。上総介広常の滅亡後は千葉氏が入り、常胤―常秀(常胤孫)―時常(常秀子)と相伝した。

埴生庄
はぶのしよう

現山陽町大字埴生辺りを荘域とすると思われる石清水いわしみず八幡宮(現京都府八幡市)荘園

立荘の時期は不詳であるが、承安元年(一一七一)一二月一二日付の官宣旨(石清水八幡宮記録)によれば石清水八幡宮宝塔ほうとう院領一二ヵ所のうちに「長門国埴生庄」とみえ、院主法印成清がこれらの荘園を院家に付すように求め、左弁官が許可を与えている。しかしなお不知行だったようで、養和元年(一一八一)一二月二日、宝塔院領一二ヵ所を院家に付すよう命じた後白河院庁下文案が残り(「石清水八幡宮記録」所収)、建久元年(一一九〇)一二月にも同様の下文が出されている(石清水文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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