佐和山城跡(読み)さわやまじようあと

日本歴史地名大系 「佐和山城跡」の解説

佐和山城跡
さわやまじようあと

[現在地名]彦根市佐和山町

佐和山(二三二・九メートル)に築かれた中世の城。北麓に筑摩つくま(入江内湖)、西麓に松原まつばら内湖が広がり、東麓の鈴鹿山脈との間の狭小な地帯を東海道(古代の東山道、近世の中山道)が通る要害の地。築城時期は不明だが、守護佐々木定綱の六男時綱は佐和と号しており(尊卑分脈)、時綱の代に館を構えたのがはじまりと伝える。なお山名・城名を佐保さほ山・さわ山ともよび、「蜷川親俊日記」天文七年(一五三八)五月二三日条にみえる「高山城」も当城をさしている。

天文七年三月二七日の六角定頼感状(古証文)に、同氏の臣二階堂小四郎が佐和山麓で坂田武士若宮弥左衛門を討取ったとあり、五月二三日には定頼に通じていたもと京極家の重臣多賀貞隆が当城を落して百々三河守を城代にしている(「蜷川親俊日記」など)。同一〇年京極高広と同家の執権浅井亮政・久政父子が対立した際、浅井氏に肩入れした六角定頼は進藤貞治を当城に遣わし、坂田・犬上いぬかみ両郡の諸士の人質を当城に収容させており(今井軍記)、同二一年七月、六角義賢は京極高広と和睦した浅井久政を討つべく、当城を後詰に湖北に進軍している(下坂文書)。しかし、戦いのなかで高広・久政方は鎌刃かまは(現坂田郡米原町)菖蒲しようぶ嶽・佐和山の三城を占領、佐治太郎左衛門を在番とする太尾山ふとおやま(現米原町)のみが六角支城の状態であったらしい(小佐治文書)。その後の推移はつまびらかでないが、永禄二年(一五五九)浅井賢政(長政)が六角方から離反した際には、浅井家臣となった百々氏が城を守っていた。同年五月、六角義賢は伴中務少輔に当城攻めを命じたが果さず、六角家臣蒲生定秀は、七月までに落城させた者に当城および百々内蔵介の知行地と金五万疋を与えること、戦死者の子孫には五〇〇石を加増することを約束している(蒲生文武記)。八月には百々内蔵介が戦死し、翌々年三月には百々隠岐守盛実が六角方に攻められ自害したが(厳助往年記)、浅井家臣磯野員昌勢の帰城が早く、以後同氏が城主となった(江濃記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報