坂田寺跡(読み)さかたでらあと

日本歴史地名大系 「坂田寺跡」の解説

坂田寺跡
さかたでらあと

[現在地名]明日香村大字阪田

飛鳥川東岸、明日香村からいもヶ峠を越えて吉野に出る道の両側にあったとみられる古代の尼寺。「日本書紀」用明天皇二年四月二日条に「天皇の瘡いよいよ盛なり。終せたまひなむとする時に、鞍部多須奈司馬達等が子なり。進みて奏して曰さく、「臣、天皇の奉為に、出家して修道はむ。又丈六の仏像及び寺を造り奉らむ」とまうす。天皇、為に悲び慟ひたまふ。今南淵の坂田寺の木の丈六の仏像・挟侍菩薩、是なり」とあり、また推古天皇一四年五月五日条に、飛鳥寺の金銅丈六仏を造顕した仏師鞍作鳥に対する詔勅がみえ、そのなかに祖父司馬達等と鳥の功をあげたのちに、「即ち大仁の位を賜ふ。因りて近江国の坂田郡の水田二十町を給ふ。鳥、此の田を以て、天皇の為に、金剛寺を作る。是今、南淵の坂田尼寺と謂ふ」と記す。このことから当初の寺名は金剛こんごう寺といい、坂田寺の名は寺田のあった近江国坂田郡に由来するもののようである。南淵みなぶちは阪田対岸の稲渕いなぶちが遺称地で、古く飛鳥川上流域をさす地名であったとみられる。現在、集落の中に坂田寺の系統をひくとする金剛こんごう(浄土宗)があるが、関係については不詳。同書朱鳥元年(六八六)一二月一九日条には同年九月九日に死亡した天武天皇のために無遮大会を大官だいかん・飛鳥・川原かわら小墾田豊浦おはりだのとゆら・坂田の五寺に設けたことがみえる。平城京で活躍した尼僧法華ほつけ(現奈良市)善光と坂田寺信勝がおり(天平勝宝九歳二月四日「大小乗経奉請注文」、年月日未詳「優婆夷貢進解」正倉院文書)、天平勝宝元年(七四九)四月八日東大寺大仏の脇侍仏として善光は西の虚空蔵、信勝は東の観音をそれぞれ造立している(東大寺要録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報