坂出塩田(読み)さかいでえんでん

改訂新版 世界大百科事典 「坂出塩田」の意味・わかりやすい解説

坂出塩田 (さかいでえんでん)

調塩貢納の記録や《西大寺流記帳》の塩山・塩釜の文書などから,坂出地方における塩生産は古代以前にさかのぼりうる。また1445年(文安2)の《兵庫北関入船納帳》によっても,讃岐塩がかなり搬出されていることがわかる。また近世初頭の東部瀬戸内の大規模な人口移動の時期に,播磨からの移住者が坂出,丸亀撫養(むや)に古式入浜を開拓したようである。坂出における近世的な入浜塩田干拓は1787年(天明7)の御供所浜約5haから始まる。もっとも大規模なものは,1825年(文政8)の久米栄左衛門(通賢)による東・西大浜約100haである。以降65年(慶応1)に3ha,明治以降145haが開発され,最盛期には総計350ha余が稼働していた。塩田様式は入浜塩田として基本的には変わらないが,塩田の一隅貯水池を設け,降雨後直ちに雨水をそこへ踏車によって排水し,乾燥を速やかにさせる設備を特徴とした。高松藩主はこれら塩田を所有し,塩業者はその小作人という独特な経営形態であった。したがって貢租は塩口銭と作徳塩を徴収した。1883年藩主は大浜・綾井浜を小作人に払い下げている。1871年塩会所が廃止され塩・石炭問屋制は一時混乱したが,83年塩産合資会社を創立した。1905年専売制施行に当たり回送・販売業者は坂出回送会社を創立し,製塩業者は離合集散を経て1950年,坂出塩業,中讃塩業,林田塩産,坂出塩田の各企業が真空式製塩工場を建設し,52年以降塩田を流下式盤枝条架法に変え,71年からイオン法による採鹹方式に転換した。
塩田
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