坂上田村麻呂墓(読み)さかのうえのたむらまろのはか

日本歴史地名大系 「坂上田村麻呂墓」の解説

坂上田村麻呂墓
さかのうえのたむらまろのはか

[現在地名]山科区勧修寺東栗栖野町

栗栖野くるすのの東南、山科川の西にあり、別名花木塚はなのきづか。墓所の辺りを馬背ませ坂という。田村麻呂は、奈良時代の陸奥鎮守府将軍苅田麻呂の子。天平宝字二年(七五八)に生れ、延暦一六年鎮守府将軍兼征夷大将軍となり、陸奥に伊沢城・志波しわ城を築いた。同二四年参議、弘仁元年(八一〇)平城上皇により造平城宮使に任ぜられ、大納言。薬子の乱の鎮定に功があった。弘仁二年死去。五四歳(公卿補任ほか)

「日本後紀」弘仁二年五月二三日条に「薨于粟田別業」とあり東山粟田あわた辺の別荘で死去しているが、「田邑麻呂伝記」に「同二十七日葬於山城国宇治郡栗栖村今俗呼為馬背坂」、「日本後紀」同年一〇月一七日条に「山城国宇治郡地三町、為故大納言贈従二位坂上大宿禰田村麻呂之墓地」とあるように、宇治郡の地に葬られた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報