土井氏(読み)どいうじ

改訂新版 世界大百科事典 「土井氏」の意味・わかりやすい解説

土井氏 (どいうじ)

近世大名譜代。清和源氏土岐氏の庶流と伝える。江戸時代,土井氏の祖となる土井利勝出自には諸説があるが,2代将軍となる徳川秀忠に近侍し,のち老中大老となった。1602年(慶長7)下総小見川で1万石を得,順次加増されて1633年(寛永10)下総古河(こが)16万石を得た。利勝の死後,庶子の利長,利房に分知があり,利勝のあと利隆,利重,利久と続くが,利久に子なく断絶。しかし利勝の功によって,利隆の次男利益をもって宗祀を継いだ。所領は志摩鳥羽,肥前唐津を経て,1762年(宝暦12)古河に帰り,その後,相承して明治維新を迎えた(古河藩)。2万石を分知された利長は1663年(寛文3)三河西尾城を与えられ,利信のとき1747年(延享4)三河刈谷城に転封し,明治に至る。1万石を分知された利房は老中となり,1682年(天和2)越前大野4万石を得,子孫もたびたび幕府の重職についた。3家とも明治維新後は子爵となる。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の土井氏の言及

【唐津藩】より

…肥前国(佐賀県)松浦郡唐津に藩庁を置いた譜代中藩。1593年(文禄2)朝鮮の役で改易された波多信時に代わって豊臣大名寺沢広高が配置されたことに始まる。石高は6万3000石。98年(慶長3)朝鮮の役における軍功によって筑前怡土(いと)郡2万石,1600年関ヶ原の戦における戦功によって肥後天草4万石が加増された。合計石高12万3000石。広高は唐津城を完成する一方,新田開発,松浦川の改修工事,虹ノ松原防風林の植樹につとめ,16年(元和2)には総検地を実施して,藩制の基礎を整備したが,2代堅高のとき勃発した島原の乱によって天草4万石が没収され,47年(正保4)世嗣断絶によって改易となった。…

【古河藩】より

…1590年(天正18)徳川家康関東入国の際,小笠原秀政(3万石)をここに封じたのに始まり,1602年(慶長7)松平(戸田)康永2万石,12年小笠原信之・政信2万石,19年(元和5)奥平忠昌11万石,22年永井直勝・尚政7万2000石→8万9000石,33年(寛永10)土井利勝→利益(5代)16万石→7万石,81年(天和1)堀田正俊・正仲9万石→13万石→10万石,85年(貞享2)松平(藤井)信之・忠之9万石→8万石,94年(元禄7)松平(大河内)信輝・信祝(のぶとき)7万石,1712年(正徳2)本多忠良・忠敞(ただひさ)5万石,59年(宝暦9)松平(松井)康福(やすよし)5万石と続き,62年土井利里が7万石で移封して来て以後7代で(1822年から8万石),1871年(明治4)の廃藩置県に至る。つまり近世の過半は土井氏が藩主であった。領地は〈城付5万石〉と称される古河周辺115村(下総葛飾・猿島郡29村,下野都賀・寒川・安蘇郡76村,武蔵埼玉郡10村)のほかに飛地を有する家が多く,土井家は摂津の平野に陣屋を置いていた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」