国図(読み)こくず

改訂新版 世界大百科事典 「国図」の意味・わかりやすい解説

国図 (こくず)

律令行政の具とされた地図。明確な概念規定はなされていないが律令時代の国郡図,校・班田図総称とみて大過ない。国郡図はおそらく郡単位に作成され国ごとにまとめて中央に提出されたもので,国郡郷邑,駅路の遠近山野形勢などを表した図。発生は大化改新詔までさかのぼり,天武朝には部分的に作成されたが,全国的に造られるに至ったのは738年(天平10)以降で,延暦期(782-806)にはいっそう拡充された。中国の伝統的な地図の制度にならったものであろうが実態はつまびらかでない。校・班田図は班田収授に際し土地所有関係を明確にするために作成された大縮尺地図。条里区画に沿い条ごとに成巻された長尺地図で,地形,用水施設などを絵画的に表現し,坪ごとに土地所有者名,地積などを記入する。文献上の初見は天平1年(729)で,10世紀前半まで断続的に作成された。国司のもとで郡単位に作成され,一部を国にとどめ一部を中央(民部)へ提出した(民部省図帳)。校田図は校田の結果を,班田図は班田の結果を表した図であるが,事実上同じ内容だったらしい。天平14(742)・天平勝宝7(755)・宝亀4(773)・延暦5(786)年度のものを四証図と呼び永久保存の重要証拠書類とされた。10世紀以降,校・班田図とは別に〈基準国図〉が作成されたという説もあるが明証に乏しく,なお検討を要する。
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世界大百科事典(旧版)内の国図の言及

【田図】より

…786年(延暦5)から791年のころ,天平14年(742),天平勝宝7歳(755),宝亀4年(773),延暦5年(786)を四証年とし,その年度の図籍をとくに重視する旨の格が出され,これ以後この4ヵ年の田図は〈四証図〉と呼ばれた。班田制の衰退にともない,田籍ははやくその役割を失っていったが,田図は土地所有の根拠を示す証験として引きつづき重視され,10世紀以降は国図と呼ばれて公領・私領の争いに重要な役割を果たした。今日,田図の遺品としては,鎌倉時代の写本であるが,《京北(けいほく)班田図》や,12世紀初頭の写本とされる828年(天長5)の《山城国葛野郡班田図》がある。…

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