四日町(読み)よつかまち

日本歴史地名大系 「四日町」の解説

四日町
よつかまち

[現在地名]花巻市四日町一―三丁目など

花巻三町の一町で、天正一九年(一五九一)花巻郡代の北秀愛が太田おおた清水きよみず寺付近などの市場を花巻村地内に移し、四の日を市日として開いた町という。花巻城の北西に位置し、奥州街道沿いに南北に延びる町。同街道はいったん東に屈曲し、南に折れて一日市ひといち町に続く。文化―文政年間(一八〇四―三〇)の花巻城郭図(花巻市史)によると、北に隣接して栗木くりのき町、同町から北に水路を渡り、東に延びる川原かわら町が記され、当町の西側に並行して四日町裏町がある。同町は盛岡藩主の参勤交代通行の際に町民が通る道であった。

四日町
よつかまち

[現在地名]大槌町上町かみちよう

木柵を境に八日ようか町の西に続く。浜街道は四日町の町外れで左に折れ、川を渡って片岸かたぎし村・鵜住居うのすまい(現釜石市)に向かい、大槌街道は小鎚こづち川沿いにさかのぼって橋野はしの(現同上)を経て遠野に行く。元和元年(一六一五)盛岡藩主南部利直廻国の折、八日町一町では伝馬役などを勤めるのが難儀として藩主の命で町立てされたことに始まる。小槌こづち村に成立した町であるが、同村とは分離して検断が置かれた。八日町とともに大槌町ともよばれた。四の日の三斎市が立てられ、町名は市日に由来する。八日町とともに駅場が置かれ、公務は両町交替で行われた(「大槌支配録」県立図書館蔵ほか)

四日町
よつかまち

[現在地名]山形市相生町あいおいちよう錦町にしきちよう宮町みやまち五丁目

鍛冶かじ町の西に延びる羽州街道の両側町。北は宮町、南は小橋こばし町、西は町。町名は四日の三斎市(元禄一〇年「屋敷家数等覚」山形故実録)に由来する。六日むいか町と並んで城下北部の商業の中心地で、大商人も多かったという。最上氏時代城下絵図では当町の地域に「カチ町」と記される。もとは鍛冶町の内であったが、のちに市が立つようになってから分離したと考えられる。嘉永二年(一八四九)の山形社寺調町々高明細帳写(長井政太郎氏旧蔵文書)では当町と鍛冶町が合せて集計されており、両町の結び付きがうかがえる。

四日町
よつかまち

[現在地名]横手市四日町

おお町の西側に接する町で、北は横手川、町の南部を二ノ堰(小刀堰)が西流する。藩政初期と推定される横手古図(石川教敏氏蔵)にみえ、「梅津政景日記」元和三年(一六一七)九月二一日条に「四日町伊右衛門馬」とある。寛文九年(一六六九)横手絵図面(横手郷土史資料)に四日町小路とあり、南北に貫く羽州街道に直交する道によって北から下・中・上の三丁に分れている。同絵図の家数は九八戸で、藩政初期、大町三丁と合わせて外町六丁とよばれた。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」では、町の長さ二六七間、家数一一八軒。

中丁の西側に伝馬所が置かれていた(横手郷土史資料)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報