横手城下(読み)よこてじようか

日本歴史地名大系 「横手城下」の解説

横手城下
よこてじようか

[現在地名]横手市上内かみうち町・羽黒はぐろ町・城南しろみなみ町・根岸ねぎし町・城山しろやま町・もと町・蛇の崎じやのさき町・二葉ふたば町・城西しろにし町・さいわい町・おお町・四日よつか町・中央ちゆうおう町・大水戸おおみど町・田中たなか町・鍛冶かじ

横手川右岸の横手城を中心とする城下町で、背後は奥羽山脈に連なる山地、北・西・南には横手盆地が広がる。現横手市の中心市街地にあたる。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳によると横手町は寄郷二六ヵ村の親郷であった。

横手川が城下町を右岸の内町うちまち(武家屋敷町)と左岸の外町とまち(町人町)とに分断する。羽州街道(現国道一三号)が外町の南端鍛冶町と家並を接する横手前郷よこてまえごう村の山崎やまざきから町に入り、二筋に分れて四日町・大町を通り蛇ノ崎橋で合流し、横手川北部の通称下内しもうち町を経て、約八キロ北の仙北せんぼく金沢中野かねざわなかの村・金沢本町かねざわもとまち村の駅場へ向かう。脇街道の角間川かくまがわ街道(横手―角間川)が慶長年中(一五九六―一六一五)に改修されて、雄物川筋の主要河港平鹿ひらか角間川村(現大曲おおまがり市)と結ばれ、久保田くぼた(現秋田市)の外港土崎湊つちざきみなとへの年貢米その他物資の大量輸送を可能にした(横手郷土史資料)。また横手前郷村で羽州街道から東に分れ、南部領和賀わが越中畑えつちゆうはた(現岩手県和賀郡湯田町)に至る小松川街道の起点でもあった。そのほか城下から西に向かう平鹿郡浅舞あさまい(現平鹿町)沼館ぬまだて(現雄物川町)大森おおもり(現大森町)など、戦国末期に小野寺氏の有力城館のあった地に通ずる道路がある。城下町の周縁には、一五、六世紀頃、小野寺氏・横手佐渡守が居館したひら城跡が西郊に、愛宕山朝草刈あたごやまあさくさかり城跡が東部にある。

城下町の成立期は、戦国期まで横手城主であった小野寺氏の小野寺家系図(小野寺氏研究資料)に、応永一四年(一四〇七)没とある春光の牌所春光しゆんこう寺が山崎にあったと伝える(雪の出羽路)ことから、この頃であろうとする説(横手郷土史資料)がある。春光の孫泰道が、寛正六年―応仁二年(一四六五―六八)南部氏と戦って勝ち「再居仙北之本城」(小野寺家系図)とあり、横手正平しようへい寺の小野寺御伝記当山歴世伝記(雪の出羽路)に「小野寺中務大夫泰道公、雄勝郡稲庭城主、従沼館、移住横手平城、長禄年中建立正平寺」とある。同伝記に小野寺四郎丸景道がりゆうさき(朝倉山の横手城)を築き、慶長二年没とある。天正一八年(一五九〇)太閤検地のため大谷吉継が横手城に入った頃までには、近世城下町の原型が開かれていたのであろう。慶長七年、常陸佐竹氏の秋田移封後はその枝城となり、初代城代伊達盛重が城南の嶋崎しまざき町給人ならびに足軽を組(与)下とし、搦手城代向右近宣政がそれに平行する羽黒町給人ならびに足軽を組下として居住し、同八年、須田盛秀が副城代に任ぜられ、常陸以来の組下茂木百騎を率いて城西の本町に入った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の横手城下の言及

【横手[市]】より

…金沢(かねざわ)に後三年の役で清原氏が源義家を迎え撃った金沢柵がある。【北条 寿】
[横手城下]
 出羽国平鹿郡の城下町。北部の余目(あまるめ)は《和名抄》の平鹿郡余部郷の地と推定される。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」