和地村(読み)わじむら

日本歴史地名大系 「和地村」の解説

和地村
わじむら

[現在地名]浜松市和地町など

西大山にしおおやま村の南西、浜名湖(庄内湖)東岸に位置。南は佐浜さはま村のうち佐浜新田、西は平松ひらまつ村。「和名抄」に載る敷智郡和治郷の遺称地とされる。中世村櫛むらくし庄のうち。嘉暦四年(一三二九)四月二〇日の村櫛庄年貢算用状案(教王護国寺文書)に「和地わじ分 毎年六石六斗六升六勺皆納」とある。当地が負担した本家寺用米六石余は、本来一〇石であった京都東寺への年貢高が地頭方二・領家方一に分割された時の地頭方分で、残りの年貢高は領家方として四人に割振られた分のいずれかに組込まれていたと思われる。なお神奈川県立金沢文庫蔵の「愛染法密記」奥書によれば、元弘二年(一三三二)一月一〇日に僧永憲が「村櫛庄和地村御坊」で同書を書写しており、同坊は真言宗大山だいせん寺のことであろう。貞治元年(一三六二)東寺は守護今川氏に半済中止を愁訴したが(応安元年閏六月日「最勝光院方評定引付」東寺百合文書)、同三年にも村櫛庄の年貢対捍が起こっている。この頃「和地伊(佐)地分」の年貢を対捍したのは吉良殿代官で(「東寺申状」「村櫛庄本家年貢対捍人注文」同文書)、この時期すでに当地は引間ひくま領主としてかかわりをもちはじめた吉良氏の権力基盤の一つであった。

和地村
わじむら

[現在地名]渥美町和地

太平洋岸に面し、北は山田やまだ村に接し、東は越戸おつと(現赤羽根町)と境し、西は小塩津こしおづ村と隣接する。「和名抄」に渥美郡和太わだ郷とあるのは和地わじ郷の誤りかといわれるが定説がない。広瀬都巽の「和鏡聚英」に平安末期の薄手菊坐紐おおばこ葉花穂の鏡が和地和鏡発見地とあるが遺跡は不明。天保三年(一八三二)の「地方秘録」によれば、田は二四町九反一畝余、畑は五四町七反余で、網数二七帖、舟数四〇艘、御城人足一〇〇人、郷倉一(五間に二・五間)とあり、嘉永五年(一八五二)の調べに家数二七六、人数一千四二六とある(田原町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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