君田村(読み)きみたそん

日本歴史地名大系 「君田村」の解説

君田村
きみたそん

面積:八六・三九平方キロ

双三郡の最北端、中国山脈の南側に位置し、神之瀬かんのせ川が中央を北から南へ貫流耕地は村面積の四・六パーセントで、そのほとんどは沖積平地に集まる。東西五キロ・南北一五キロの細長い村で、高幡たかはた(六六五メートル)以北は標高八〇〇―六〇〇メートルの山塊が連なり、その間を神之瀬川が深い谷を刻む。比婆郡高野たかの町と境を接する北部、同郡口和くちわ町と境を接する東部、双三郡布野ふの村と境を接する西部三方は山で囲まれ、三次みよし市と接する南だけが開かれた地形。世帯数の七六パーセントが農家。三次市から君田村・高野町を経て島根県安来やすぎ市に延びる県道三次―安来線が南北に貫通し、県北の中心都市の一つ三次市へ二〇キロと近く、その影響は大きい。

君田村
きみたむら

[現在地名]佐野市君田町

さい川の東岸に位置し、北東赤坂あかさか村。元和四年(一六一八)小山藩検地帳(岡金次文書)に村名がみえ、田三〇町一反余・畑五町三反余、屋敷名請人八で一町一反余、名請人は村内居住三一・入百姓六三(うち天明より四八)。慶安郷帳では田高三三三石余・畑高五五石余。若狭小浜藩領とみえるが、寛文四年(一六六四)の小浜藩領知目録に村名はみえない。貞享四年(一六八七)旗本荻原領となる(正徳四年「村明細帳」岡金次文書)。宝永二年(一七〇五)旗本佐野領となり、幕末に至る。元和三年には本百姓一一(「日光御用割付」野城勝文書)。正徳四年(一七一四)には人数一六三(男八七・女七三・出家三)、馬一四(「五人組宗門改帳」岡金次文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報