向宿村(読み)むこうじゆくむら

日本歴史地名大系 「向宿村」の解説

向宿村
むこうじゆくむら

[現在地名]浜松市向宿一―三丁目・天神町てんじんまち相生町あいおいちよう

馬込まごめ川左岸の平野に位置し、西は上中島かみなかじま村、南は馬領家うまりようけ村、東は長上ながのかみ名切なぎり村。北部に天神町があり、東海道が通る。中世は浜松庄宇間うま郷に属した。天文一〇年(一五四一)三月一六日の飯尾乗連寄進状(寿量院文書)に「遠州浜松庄宇間郷向宿受領庵領事」とみえ、以前吉良義尚が受領庵(現臨済宗方広寺派寿量院)領として畠一反を寄進していたが、その後の検地で打出された一町九反が飯尾乗連によって寄進された。同一九年一二月には竹庵珠栴によって玉浦珠珍の画像が向宿の授竜庵に安置され、茶湯代として寺島てらじまのうち三貫文が寄進されている(「珠栴寄進状」同文書)

天正一九年(一五九一)一一月二〇日の四拾七村惣高辻書上(横山家文書)に向宿とあり、二七八石余。

向宿村
むこうじゆくむら

[現在地名]那須町睦家むつや

芋淵いもぶち村の北にある。慶安郷帳に村名がみえ、田高五六石・畑高一四石、黒羽藩領。元禄郷帳・天保郷帳では村名を欠くが、「創垂可継」封域郷村誌巻一には大蔵おおくら(現黒羽町)の枝村として載り、同巻二・巻三によれば高一六〇石余、田方七町二反余・畑方五町九反余、家数八。改革組合村でも同高で家数三。享保一三年(一七二八)の将軍徳川吉宗の日光社参の際には奥州街道芦野あしの宿の助郷(勤高一六六石)を勤め(「芦野宿当分助郷帳」熊久保康正文書)、その後、天保一〇年(一八三九)それまでの助郷負担軽減運動が実って四七石余が休役となり、勤高は七八石余となった(「芦野宿助郷議定書」松本稔文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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