名方郡(読み)なかたぐん

日本歴史地名大系 「名方郡」の解説

名方郡
なかたぐん

吉野川下流域右岸に位置した郡。「和名抄」所載の名東みようどう郡名方郷は、同書高山寺本などで「奈加多」と訓を付せられていることから、郡名のよみも「なかた」であろう。平城宮跡出土木簡に「名方郡石井郷川□里」「阿波国名方郡土師郷土師広友」とある。また長岡京跡出土木簡にも「阿波国名方郡井上庸」と記されている。寛平八年(八九六)九月五日の太政官符により名東(名方東)名西みようざい(名方西)の二郡に分割されるまでは一一郷から成り立っていた(昌泰元年七月一七日「太政官符」類聚三代格)。「延喜式」神名帳には「名方郡九座」として大社一座(天石門別八倉比売神社)・小社八座(天石門別豊玉比売神社・麻能等比古神社・和多都美豊玉比売神社・大御和神社・天佐自能和気神社・御間都比古神社・多御奈刀弥神社・意富門麻比売神社)が記載されており、名東郡名西郡には分けられていない。

名方郡に属する現名西郡石井いしい石井城いしいじよううち中王子なかおうじ神社に「阿波国造名方郡大領正(七)位下粟凡直弟臣墓 養老七年歳次癸亥年立」と記す墓碑(県指定文化財)が所蔵されている。名方郡郡司(大領)であり阿波国造でもあった粟凡直弟臣の墓碑で、養老七年(七二三)という年号を明記する最も古い部類に属する墓碑である。ただ中王子神社の神体として保存されてきた伝世品であり、真偽についての決め手がないということで、その存在は古くから知られていたにもかかわらず阿波古代史のなかに十分位置づけられてこなかったが、現在では他の史料との関連などからみて、この墓碑を八世紀段階で作製されたものとみてよいという見解が定着している。

粟凡直氏は凡直国造として六世紀末には吉野川下流域ののちの阿波・名方・板野いたの三郡に広がるクニを統轄する一族として姿を現していた。七世紀中期の孝徳―天智期に至り、粟凡直氏のクニを基盤に新しい地方行政組織としての評が設置される。この評(粟評とよばれていた可能性がある)は吉野川下流域の平野全域を包含しており、初代の評の官人としての評造には粟凡直氏が任ぜられていたと考えられる。最近現徳島市国府町観音寺こくふちようかんのんじ観音寺遺跡の六六〇年頃の層から「波尓五十戸税三百□ 高志五十戸税三百十四束 佐井五十戸税三□」と記された木簡が出土した。「波尓」「高志」はのちの名西郡に属する埴土はに高足たかし両郷に対応する存在とみて間違いなく、「五十戸」はのちの令制下の里(郷)に連なる戸を編成した組織である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の名方郡の言及

【阿波国】より

…令制下,2国(あるいは3国)は合一し,名方(のちに名東,名西),板野,阿波,麻殖(おえ),美馬(みま)(のち三好が分出),勝浦,那賀(のち海部が分出)の7郡がおかれる。国府が名方郡(現,徳島市国府町)におかれ,国分寺・国分尼寺もその近くに所在すること,さらに延喜式内社50社(大社3,小社47)のうち,大社の大麻比古(おおあさひこ)神社(板野郡),忌部神社(麻殖郡)など3社とも北方にあることに示されるように,古代の阿波の政治・文化の中心は北方吉野川流域におかれていた。北方,南方いずれも大河が形成する沖積平野が活動舞台になっているため,農民たちにとって,いかに水を制御していくかが重要な課題であった。…

※「名方郡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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