古河町(読み)こがまち

日本歴史地名大系 「古河町」の解説

古河町
こがまち

[現在地名]古河市はら町・さいわい町・ほん町一―四丁目・長谷はせ町・中央ちゆうおう町一―三丁目・横山よこやま町一―三丁目・大手おおて町・西にし町・さくら町・にしき町・宮前みやまえ町・松並まつなみ一―二丁目・あさひ町一―二丁目・ひがし一―四丁目・三杉みすぎ町一―二丁目・みどり町・東本町一―四丁目・雷電らいでん町・平和へいわ町・きた町・下山しもやま町・みなみ町・常盤ときわ町・しずか町・古河

渡良瀬わたらせ川東岸に所在。中世の古河町は古河城とすずめ神社の間、当時の奥州街道沿いにあったといわれ、宿の北は野渡のわた(現栃木県下都賀郡野木町)に接していた形跡がある。しかし古河御城内外総絵図(佐藤洋之助蔵)などによって知ることができるのは近世に再開発された後の姿である。「古河志」の引く「小山家記」に「奥平千福代、是迄の町家侍小路となり、今の町屋は其時の替地也。元和六年庚申の事とみゆ」とあり、「古河旧記」の「(元和)六年庚申五月より御家中町屋敷割有之、同七年酉三月家作出来」や、古河古来仕来覚(千賀忠夫文書)奥平忠昌の項に「此の御代、長谷曲輪・辰崎曲輪出来、先年町屋敷侍小路と成ル」とあることから近世古河町の大改造は奥平忠昌が城主であった元和六年(一六二〇)五月から翌年三月にかけて行われ、中世以来の古河町は後に侍屋敷となった所にあったことがわかる。

武家屋敷は城のある半島状の台地の根元の位置(ここが旧古河宿)と、諏訪すわ(俗に出城)を取巻く位置にあり、小砂こすな町・桜町・観音寺かんのんじ町・かた町・うまや町・なかの町・白壁しらかべ町・代官だいかん町・鳥見とりみ町・四丁屋敷しちようやしき天神てんじん町・杉並すぎなみ町が前者内に、六軒ろつけん町・四軒しけん町・鷹匠たかじよう町・長谷町などの侍屋敷町が後者内にみられる。足軽屋敷七ヵ所などはいずれも町外れにみえる。

古河町
ふるこまち

[現在地名]長崎市古河町・西琴平町にしことひらまち

なみひら町の南西にある。江戸時代は戸町とまち村のうちで、正保国絵図では「古川」とある(大村見聞集)元禄国絵図、安永七年(一七七八)の長崎図では上古川・古小川、享和二年(一八〇二)の長崎絵図に古川・小古川とみえ、南に妙行みようぎよう寺、東に大浦おおうらが記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報