厚原村(読み)あつはらむら

日本歴史地名大系 「厚原村」の解説

厚原村
あつはらむら

[現在地名]富士市厚原

伝法でんぼう村の北西潤井うるい川左岸に位置する。 中世は富士下方しもかたのうち、熱原郷とも表記される。文永一一年(一二七四)と推定される八月六日付の日蓮書状(日蓮聖人遺文)に「はわき房・さと房等の事、あつわらの者ともの御心さし、異体同心なれは万事を成し、同体異心なれは諸事叶事なし」とみえ、日蓮は伯耆房(日興)のことに関して熱原の信者の同心を促している。また弘安元年(一二七八)と思われる駿河国窪尼宛の五月三日付日蓮書状(同遺文)に「あつわらの事、こんとをもつてをほしめせ、さきもそら事なり」とみえ、当地紛争が続いていたと思われる。当時の熱原には日蓮信者が多くいたようで、富士下方の天台宗寺院滝泉ろうせん(比定地は入山瀬辺り)の院主代行智は住僧の日秀・日弁らが日興の弟子となって日蓮の教えを広めていることを憎み、これを止めさせようと迫ったが、日秀らが拒否して熱原百姓紀次郎らを率いて院主坊に打入り、刈田狼藉を行ったとして行智が幕府に訴えた(弘安二年一〇月日「滝泉寺日秀・日弁等申状案」中山法華経寺文書)。日蓮はこの事件を全日蓮宗への弾圧ととらえ、鎌倉の檀越に宛てて「あつわらの愚痴の者ともいゐはけまして」と指示し(一〇月一日「日蓮書状写」日蓮聖人遺文)、弟子の日興に宛てて、熱原の百姓を安堵することができるならば、訴訟に及ばなくともよいと指示している(同月一二日「日蓮書状写」同遺文)。しかし日興・日秀の弟子二〇名が鎌倉に召還され、当郷の住人神四郎ら三名が斬首されたため(永仁六年「日興本尊分与帳」北山本門寺文書)、日秀らは弘安二年一〇月、平行智の日秀らに対する悪行を幕府に訴えた(前掲申状案)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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