南砺(読み)ナント

デジタル大辞泉 「南砺」の意味・読み・例文・類語

なんと【南砺】

富山県南西部にある市。山間部白山国立公園の森林で合掌造りの民家がある。平成16年(2004)11月城端じょうはな町、たいら村、上平かみたいら村、利賀とが村、井波町井口いのくち村、福野町福光ふくみつ町が合併して成立。人口5.5万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「南砺」の意味・読み・例文・類語

なんと【南砺】

富山県西南端の地名。小矢部川上流域および庄川中流域を占める。合掌造りの民家で知られる五箇山地区を含む。平成一六年(二〇〇四)市制。

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改訂新版 世界大百科事典 「南砺」の意味・わかりやすい解説

南砺[市] (なんと)

富山県南西部の市。2004年11月井波(いなみ),城端(じようはな),福野(ふくの),福光(ふくみつ)の4町と井口(いのくち),上平(かみたいら),平(たいら),利賀(とが)の4村が合併して成立した。人口5万4724(2010)。

南砺市北東端の旧町。旧東砺波(ひがしとなみ)郡所属。人口1万0373(2000)。砺波平野の南端に位置し,町域の南東部は両白山地北端の山地が占める。中心集落の井波は八乙女山麓にあり,1390年(元中7・明徳1)綽如(しやくによ)により建立された瑞泉寺の門前町,また五箇山(ごかやま)をひかえた市場町として栄え,戦国時代には一向一揆の拠点であった。1581年(天正9),1762年(宝暦12)に大火にあったが,その再建を契機として井波に木彫工芸が発展した。現在は国の伝統的工芸品産業に指定され,欄間を中心に壁面装飾品,置物類の生産が多く,木彫後継者の育成も図られている。ほかに繊維,木材などの工業も行われる。西部には越中国一宮の高瀬神社がある。

南砺市北東部の旧村。旧東砺波郡所属。人口1296(2000)。砺波平野の南端に位置し,西半部は山麓,扇状地,東半部は両白山地北縁の山地である。扇状地は水田となっており,山地は杉の良材を産し,村有林の割合が多い。農家の兼業化が著しく,村外へ通勤するものが多い。山田川の段丘崖上に縄文後期の井口遺跡がある。
執筆者:

南砺市南西端の旧村。旧東砺波郡所属。人口997(2000)。庄川上流の峡谷と山地を占め,南は岐阜県大野郡白川村に接する。隣接の旧平村,旧利賀村とともに五箇山とも呼ばれ,典型的な隔絶山村で,近世は加賀藩領であった。大正末から始まった庄川水系の電源開発・道路整備により,人と物資の移動が容易になったが,同時に過疎化が進み,合掌造民家も減少した。庄川水系には関西電力の小原(出力4.57万kW),新小原(4.5万kW),成出(3.5万kW),新成出(5.82万kW),赤尾(3.25万kW)の5水力発電所(1997年現在)がある。農業は第2次世界大戦後の開田による米作のほか,ミョウガ,赤カブ,カボチャ,ナメコの栽培が行われ,ニジマスイワナ養殖も行われている。東海北陸自動車道の五箇山インターチェンジがある。国道156号線に沿う菅沼には合掌造住宅群9棟(史)があり,西赤尾には五箇山で最大の合掌造の岩瀬家(重要文化財)がある。
五箇山
執筆者:

南砺市中央部の旧町。旧東砺波郡所属。人口9948(2000)。砺波平野の南端にあり,小矢部(おやべ)川の支流山田川流域を占める。町域の南半部は両白山地北端の山地である。中心集落の城端は浄土真宗善徳寺が1559年(永禄2)あるいは72年(元亀3)に北西の福光から移されてから門前町として栄えたが,近世には五箇山をひかえた市場町,また絹織物産地でもあった。現在は化学繊維のニット製品をはじめ県外産原糸による絹織物(羽二重),仏壇,城端塗(治五右衛門塗)などの木製品がつくられるほか,電気部品など機械・金属関係の工場も多い。毎年5月15日に行われる曳山祭は250年の伝統をもつ。JR城端線の終点で,東海北陸自動車道福光インターチェンジに近く,細尾峠を越えて五箇山へバスが通じる。
執筆者:

戦国末期善徳寺の門前町として開かれた。そのころ近村の井ノ口,山田の市場が城端へ移されたが,その後は付近の農村から庶民が来住することによって,典型的な在郷町として成長した。絹を主産業とし,1693年(元禄6)に作成された〈組中人々手前品々覚書帳〉によると,町の総家数686軒のうち,絹屋,絹手間などの生産者,絹仲買,絹仕入などの販売人をふくめて絹関係の職業が375軒に及び54%を占めていた。城端の絹織物業は,領内のみならず,上方,江戸との取引においても繁栄した。明治以後は,チンカラ機による節絹からバッタン機による羽二重の生産と,マニュファクチュア化が進み,現在は化繊織物の大量生産が行われている。また五箇山の村々との取引が盛んで,食糧,生産費を前貸しして生糸,紙などの産物を独占的に買い取る貸方(判方)と称する問屋が栄えたが,貸方は第2次大戦における統制のために完全に消滅した。
執筆者:

南砺市南部の旧村。旧東砺波郡所属。人口1416(2000)。庄川上流の岐阜県境にあり,旧上平村,旧利賀村とともに五箇山と呼ばれている。典型的な隔絶山村で,近世は加賀藩領であった。大正末からの庄川水系の電源開発,国道(156号線)の整備によって秘境と呼ばれたこの地域の生活様式も変化し,過疎化が進行した。マス,イワナの養殖,民芸和紙の生産が行われる。相倉(あいのくら)の合掌造集落23棟は国史跡,白山宮,村上家および羽馬家住宅は重要文化財に,加賀藩の流刑小屋は県の文化財に指定されている。
五箇山

南砺市東部の旧村。旧東砺波郡所属。庄川上流の岐阜県境にある。人口1083(2000)。旧平村,旧上平村とともに五箇山と呼ばれてきた。典型的な隔絶山村で,近世には加賀藩の支配下におかれた。大正末から始まった庄川水系の電源開発および道路整備により,人と物の移動が盛んになったが,生活様式も変わり,合掌造の民家も減少して過疎化も進行した。国道156号線が通る。林業の振興,高冷地野菜,薬草の栽培,イワナ養殖,山菜加工,縫製,マタタビ酒・陶芸品の生産が行われている。近年は美しい自然と歴史的遺構を生かして合掌文化村がつくられ,その中に劇団SCOT(スコツト)(旧,早稲田小劇場),国際舞台芸術研究所,野外劇場などがある。庄川東岸に大牧温泉(セッコウ含有弱食塩泉,59℃)がある。
五箇山
執筆者:

南砺市北端の旧町。旧東砺波郡所属。砺波平野南部に位置する。人口1万4682(2000)。中心の福野は,1650年(慶安3)に阿曾三右衛門の町立ての願いによって計画的につくられた町で,2・7の日を市日とする市場町として発達,町を中心に道は平野に放射状にのび,周辺に産する物資を集散した。現在も12月27日の歳の市がにぎわう。江戸時代後期から行われた桟留縞(さんとめじま)などの木綿織物業は今も盛んであり,アルミサッシ,橋梁鉄骨,工作機械などの工業生産も伸びている。また米作,野菜,チューリップの球根栽培,畜産も行われる。JR城端線が通じる。

南砺市西部の旧町。旧西砺波郡所属。人口2万0387(2000)。西は医王山を境に金沢市と接する。南部は大門山などの山地からなり,北部は砺波平野の南西端にあたる。小矢部川が中央を北流し,JR城端線が通じ,東海北陸自動車道福光インターチェンジがある。中心集落の福光は江戸時代初期から六斎市が立って栄え,八講布と呼ばれる麻布や加賀藩米の集散地としても発展した。明治期には製糸業が盛んであったが,その衰退後は木工業,繊維工業などが主要産業になっている。木工業は大正初期に創業され,運動具(野球用バット,スキーなど)の生産で知られる。なかでもバットは最盛期に全国の生産量の8割近くを占めた。農業では米菓用のもち米生産のほか野菜栽培や養豚も行われる。医王山一帯は県立自然公園に指定され,スキー場がある。夏の土用3日目に五穀豊穣を祈って〈熱おくり祭〉が行われる。
執筆者:

歴史

もとは福満と書かれたようで,平安末期以来,石黒党の根拠地と伝えられる。とくに石黒右近・左近の両家のうち,前者が1481年(文明13)一向一揆と戦って滅亡するまで,その居城があったという。しかし史料としては,《長興宿禰記(すくねき)》の文明11年11月22日条に足利義尚の〈吉書越中国福満庄事,為作文歟〉とあるのが唯一である。しかも同日の義尚から石清水(いわしみず)八幡宮への寄進状には〈徳満庄〉とある(《石清水文書》)。両荘を別個のものとみて,福満荘を現在の福光に比定すれば石黒荘と,また徳満荘を砺波市徳万に比定すれば般若野荘とともにかさなることになり,両荘の実在は疑問となる。いずれも吉書(きつしよ)にふさわしい荘名で,実体のない荘園とみられるであろう。近世の福光は,金沢と砺波平野,五箇山とを結ぶ脇往還が河川舟運の発達した小矢部川と交差する要衝にあり,加賀藩の御蔵がおかれ,またこの地域の特産である八講布や生糸の集散地となった。
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