千駄ヶ谷村(読み)せんだがやむら

日本歴史地名大系 「千駄ヶ谷村」の解説

千駄ヶ谷村
せんだがやむら

[現在地名]渋谷区千駄ヶ谷一―六丁目・代々木よよぎ一―二丁目、新宿区霞岳町かすみがおかまちなど

原宿はらじゆく村の北に位置し、北から東は甲州道中の内藤新宿、信濃高遠藩内藤家下屋敷・天龍寺てんりゆうじ門前角筈つのはず(現新宿区)など。北条氏所領役帳に島津孫四郎分として八貫六四〇文「千駄ケ谷」とみえる。江戸時代初期から大半が武家屋敷地となっていた。元和五年(一六一九)の徳川秀忠寺領寄進状(吉祥寺文書)に「武蔵国仙多カ谷郷」とみえ、郷内五〇石が駒込吉祥こまごめきちじよう寺に寄進されている。田園簿には千駄萱村とあり、田方一八五石余・畑方二一九石余、うち幕府領八五石余・浅草西福さいふく寺領一五六石余・本所霊善りようぜん(霊山寺)領九〇石余・吉祥寺領七二石余。ただし「渋谷区史」は、霊山りようぜん寺が慶長一一年(一六〇六)二代将軍徳川秀忠室崇源院より千駄ヶ谷の五〇石を寄進され、寛永一三年(一六三六)三代将軍徳川家光から同高の朱印状を与えられていることなどから(寺社備考)、同寺領の高は五〇石の誤りとみている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報