千葉町(読み)ちばまち

日本歴史地名大系 「千葉町」の解説

千葉町
ちばまち

[現在地名]中央区院内いんない一―二丁目・祐光ゆうこう一―二丁目・同四丁目・本町ほんちよう一―三丁目・道場北町どうじようきたまち・道場北一―二丁目・道場南どうじようみなみ一―二丁目・東本町ひがしほんちよう旭町あさひちよう亀井町かめいちよう亀岡町かめおかちよう市場町いちばちよう亥鼻いのはな一―三丁目・中央一―四丁目・要町かなめちよう栄町さかえちよう長洲ながず一丁目・鶴沢町つるさわちよう富士見ふじみ一―二丁目・新町しんまち弁天町べんてんちよう・弁天三丁目・春日かすが一―二丁目・神明町しんめいちよう本千葉町ほんちばちよう登戸のぶと一―五丁目・松波まつなみ一丁目、稲毛いなげ穴川町あながわちよう轟町とどろきちよう一丁目・同四丁目

現市域の南部に位置する。南の寒川さんが村から房総往還が続き、町の東から千葉佐倉道、同じく南から東金とうがね道・土気とけ往還が分岐する。中世は千葉庄として推移し、千葉氏の拠点千葉城(猪鼻城・亥鼻城)が築かれた。江戸時代には西方の登戸湊・寒川湊を控えた交通の要衝として宿場町を形成、佐倉藩領内の在郷町として重きをなした。天正一八年(一五九〇)と推定される一一月四日の大久保・原連署寺領目録(大巌寺文書)に千葉之内四貫一〇〇文とある。寛文五年(一六六五)千葉郷内の一〇〇石が千葉寺領として、同一〇石が郷内大日だいにち堂領として寄進安堵されているが(御朱印帳)、いずれものち単独に扱われる千葉町ではなく、中世の千葉庄を継ぐ広域通称名と考えられる。史料上は千葉町とも千葉村ともみえ、承応二年(一六五三)とみられる佐倉惣五郎事件訴状(佐倉宗吾)では千葉村、寛文四年の松平乗久領知目録(寛文朱印留)には千葉町村とある。

文禄二年(一五九三)検地が行われ、寛永期(一六二四―四四)には佐倉藩領になったとされるが、同藩領であることが確認されるのは前掲領知目録で寛文元年以来。以後幕末まで同藩領として推移、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では千葉町として高一千七五石余、ほか来迎らいこう寺領・妙見寺領・大日堂領となっている。幕末は佐倉藩領九三九石余・千葉神社領二〇〇石・来迎寺領五〇石・大日寺領一〇石(旧高旧領取調帳)。改革組合の寄場村。天和二年(一六八二)の千葉町明細帳(千葉市誌)によれば、佐倉藩領分八〇六石余の反別は田方五八町五反余・畑方二八町六反余。嘉永三年(一八五〇)千葉筋成箇取付帳によると年貢は免取法で、同二年より三ヵ年間定免で、米三四二石余・永四二貫六八七文余・鐚三貫七七文余。正徳四年(一七一四)・享保一二年(一七二七)・寛保三年(一七四三)・延享元年(一七四四)・弘化二年(一八四五)に新田畑が高入れされているが、穴川野新高九九石余が大きい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報