千葉庄(読み)ちばのしよう

日本歴史地名大系 「千葉庄」の解説

千葉庄
ちばのしよう

みやこ川流域を中心としてほぼ現千葉市全域に展開した下総国最大の庄園。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に記載の関東知行国々内乃貢未済庄々注文のなかに「八条院御領 千葉庄」とある。八条院は鳥羽上皇の第三皇女子内親王のことで、その成立時期は鳥羽院政期の一二世紀前半と考えられる。承元三年(一二〇九)鎌倉幕府が近国の守護職の由来を調査した際、下総国守護の千葉成胤は「先祖千葉大夫、元永以後為当庄検非違所之間、右大将家御時、以常胤被補下総一国守護職」と答えており(同書同年一二月一五日条)、開発領主は千葉大夫常兼とみられ、その子常重が千葉の地に拠って鳥羽院に寄進したと推定される。常兼は上総大椎おおじ(現緑区)に居住し、常重の代大治元年(一一二六)六月に千葉へ移住したと伝える(千学集抜粋)。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)には女院庁の庁分として「下総国千葉庄 請所」とみえ、皇室領として鎌倉末期まで相伝され、地頭千葉氏の請所となっていた。なお丹三位と注記があり、藤原雅子が領家職と思われる得分を有していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報