千田庄(読み)ちだのしよう

日本歴史地名大系 「千田庄」の解説

千田庄
ちだのしよう

下総台地に囲まれた多古たこ盆地に位置し、栗山くりやま川上・中流域の谷地を中心として展開した匝瑳郡の庄園。史料上確認できる庄内村郷としては現多古町の中村なかむら郷・はら郷多古村・大原おおはら飯篠いいざさ(村)牛尾うしのお郷・水戸みと郷、現栗源くりもと町の岩部いわべ郷・田部たべ郷、現佐原市の福田ふくだ郷、現八日市場市の金原かなばら郷などがあり、かなり広域にわたる庄園であった。応保二年(一一六二)六月三日の香取社大禰宜実房譲状(香取文書)に大禰宜職付属の神田として「千田庄内福田郷田壱町」とみえ、また社領織幡おりはた(現小見川町)の四至に「限南千田郡堺二重堀」とある。千田庄・千田郡が併記され、「拾芥抄」にも「下総国千田郡」の記載があるが、その実態については不明。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に載る関東知行国乃貢未済庄々注文にも「千田庄」が認められるが、本家あるいは領家などの記載はない。「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)九月一四日条によると、当庄領家判官代親政(親正)が源頼朝の挙兵に呼応した千葉氏と交戦して敗北したとされ、「源平闘諍録」などは親政の本拠地を千田庄次浦つぎうら(現多古町)と記している。

千田庄
ちだのしよう

菊池川中流域の現鹿央かおう町東部・鹿本町南部を中心に、一部は現山鹿やまが市東南部に及ぶ荘園。荘名は鹿央町千田につながる。「事蹟通考」は、近世玉名たまな郡中富手永の全村と内田手永のうち萩原はぎわら(現玉名郡菊水町)姫井ひめい(現鹿央町)を当庄内としているが、中富手永に属する米野めの岩原いわばる郷原ごうばるなど旧米野岳めのたけ(現鹿央町)地域は山鹿南庄に属していたから(山鹿市の→山鹿庄、その西方にある内田手永の二村は当然に荘外であった。建治二年(一二七六)閏三月八日の左衛門尉菅野兼保請文(石清水文書)に「千田本庄地頭」、同請文の包紙ウワ書には「ちたしけとみのちとう」菅野兼保がみえ、本庄およびそれと区別される重富名の存在が知られる。

千田庄
せんだのしよう

現長野市芹田・稲葉一帯。さい川の北に現在字上千田かみせんだ・下千田の字名を残すが、千田庄のなごりである。

和名抄」にみえる芹田郷の荘園化したものであると考えられる。千田庄は「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月条の乃貢未済庄々注文にはみえないが、元久元年(一二〇四)四月二三日の月輪(藤原兼実)殿自筆御処分状(九条家文書)に、「一女院庁分御領 信濃国千田小中島庄」とみえ、右の後に「右堂舎家地庄園等、永所奉附属宜龝門院也」とあるように、千田小中島庄は藤原氏相伝の所領であったのを、兼実の女任子が後鳥羽天皇中宮となった際、付けられ庁分となったものである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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