北曾根村
きたぞねむら
[現在地名]寺泊町北曾根
北は小豆曾根村、南は敦ヶ曾根村、東は五千石村(現西蒲原郡分水町、大河津分水完成後には分水が境となっている)、西は鰐口村。沖積平地の微高地に発達した集落。明応六年(一四九七)一二月二一日の志駄景義譲状写(西条文書)には子の六郎五郎春義に譲り渡した三所のうちに「一所、同郷北曾禰村吉竹之端郷也」とみえる。志駄氏は上杉氏の家臣で夏戸城主。四至は「東者三平ノ橋ヲ堺、丑寅者、ヨコノ橋ヲ堺、南者赤崎ノ宮ヲ堺、西未申者江ヲ堺、戌亥者鳥喰畠ヲ堺、北ノ野者入合、何モ当知行」とある。また同年月日の同譲状写(同文書)には「一所、同郡曾根ノ内 北曾祢」とある。永正四年(一五〇七)には上杉定実は新恩給として志駄春義に「蒲原郡内北曾禰」など三ヵ所を知行させている(同年一二月晦日「越後守護上杉定実知行宛行状」森山八郎氏蔵文書)。
北曾根村
きたそねむら
[現在地名]泉大津市曾根町一―三丁目・池園町・二田町二丁目・森町二丁目
森村・千原村の南に接続。古代氏族曾禰氏の居住地と伝え、曾祢神社が鎮座。「新撰姓氏録」(和泉国皇別)に曾禰連がみえ、饒速日命六世孫伊香我色雄命の後裔とされている。弥生前期からの大規模な集落遺跡である池上曾根遺跡が、池上(現和泉市)から当地にわたってある(和泉市の→池上曾根遺跡)。永承三年(一〇四八)の「宇治関白高野山御参詣記」に、一一月一二日午刻「着御曾禰御借屋」とみえ、藤原頼通一行の高野参詣途中の休憩地に曾禰御借屋を設け、摂津国司が勤仕したことがわかる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報