前橋城跡(読み)まえばしじようあと

日本歴史地名大系 「前橋城跡」の解説

前橋城跡
まえばしじようあと

[現在地名]前橋市大手町一―三丁目

現在の群馬県庁・前橋市役所・桃井もものい小学校・前橋中央公民館・前橋公園のある辺り一帯にあった中世以来の城跡。中世には厩橋と記され、マヤバシと発音されたと思われる。上野国の中央、群馬郡と勢多せた郡の郡境に位置し、利根川左岸にある。利根川対岸の総社そうじや地域とともに古代以来繁栄した地で、中世には総社長尾氏や長野氏がこの地を支配した。戦国時代末期には上野国に有力な大名がいなかったため、上杉謙信武田信玄・北条氏康らに攻め込まれ、各勢力は関東の支配権をめぐり一進一退を繰返したが、その拠点の一つが厩橋城であった。天正一〇年(一五八二)武田勝頼を滅ぼした織田信長は、関東管領として滝川一益を厩橋城に入れたが、同年信長は本能寺の変で死んだ。その後厩橋城は小田原北条氏の支配下に入り、北条氏の城代が置かれた。天正一八年小田原北条氏は滅び、徳川家康の関東支配のもとで前橋城には平岩親吉が三万三千石(一説に三万石)で封ぜられ、慶長六年(一六〇一)には酒井重忠が三万三千石で入り、酒井氏は以後九代にわたり続く。後半の石高は一五万石。寛延二年(一七四九)松平朝矩が一五万石で入封。しかし城本丸が利根川の激流に破壊され、明和四年(一七六七)居城は川越かわごえ(現埼玉県川越市)に移された。文久三年(一八六三)願いが聞届けられ、前橋城の再築に着工、慶応三年(一八六七)完成し、再び前橋城が松平氏の居城となった。

〔戦国時代の橋〕

築城の時期については諸説があるが、蒼海おうみ城主長尾忠房が石倉いしくらに新城を築き、利根川本流(現広瀬川)から現利根川の流路にあったくるま(久留馬川)へ運河を掘り、石倉城西の要害としたという。忠房は惣社長尾系図(修史館本)によると応永元年(一三九四)に没している。ところが応永から天文(一五三二―五五)にかけての数次の洪水のため利根川の本流は車川に移り、城を押流してしまった。その後長野宮内大輔賢忠が崩れ残った残部をもとに新石倉城を築いたのが、最初の厩橋城という。現在の前橋城跡対岸にある石倉城跡とはまったく別の城である。「前橋風土記」は延徳元年(一四八九)長野左衛門尉固山宗賢が築城、長野道安―長野弾正入道道賢―長尾入道賢忠―北条安芸守芳林―北条丹後守宗祝と続いたとする。長尾賢忠は長野賢忠の誤記である。大永七年(一五二七)一二月一六日の長尾顕景書状(上杉家文書)によれば、長野左衛門大夫方斎は総社長尾氏を攻め、厩橋宮内大夫が日夜攻撃をかけてきていると、越後の長尾為景へ救援を求めている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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