出島町(読み)でじままち

日本歴史地名大系 「出島町」の解説

出島町
でじままち

[現在地名]長崎市出島町・築町つきまち新地町しんちまち

中島なかしま川河口右岸にある長崎そと町の一ヵ町。寛永一三年(一六三六)海面を埋立てた人工の島で、同一六年までポルトガル商館、同一八年から安政六年(一八五九)まではオランダ商館が設置された。また慶応二年(一八六六)から明治三二年(一八九九)までは外国人居留地に編入された。DezimaあるいはDecimaと綴られ、デシマともよばれたらしい(明治二四年「長崎港精図」長崎図書館蔵)。史料上は出島のほか、元禄三年(一六九〇)頃の唐舟来朝図(栗田家蔵)や「崎陽群談」に出島町と記されるが、「古南蛮人被召置たるつき島」「長崎つき島」などとあり(一六四一年六月「ファン・ジーメン書簡」長崎オランダ商館の日記)、「長崎オランダ商館の日記」にも築島とする例が多く(同書一六四二年三月条など)、唐人の関連者も「つき島」と称していたようである(唐通事会所日録)。寛永一一年長崎市中に雑居していたポルトガル人を集住させるため、有力町人二五名(出島町人)に出資させて埋立造成が始められ、同一三年に竣工(長崎鑑・長崎拾芥)。島は扇形で面積一三万三〇〇〇平方メートル。一六三六年八月平戸オランダ商館のクーケバッケルは長崎に来て「ポルトガル人の宿、すなわち牢獄」を見、周囲に細密な矢来が巡らされ、日夜多数の警備の船と番人の家に見張られていると記している(平戸オランダ商館の日記)。寛永一六年キリスト教取締のためポルトガル人を追放して空地となるが、同一八年五月平戸からオランダ東インド会社の日本支店オランダ商館が移転を開始、オランダ人居留地とされた。海禁政策下(鎖国)で唯一のヨーロッパへの窓口となったが、「ポルトガル人は皆此所に居住することを強制され、夜中小屋に閉じ込められる家禽のよう」であったとも(一六三五年「オランダ商館長ニコラス・クーケバッケル書簡」出島蘭館日誌)、「ポルトガル人のために建造された獄舎として使用されていた島」であったとも認識されていた(「平戸オランダ商館の日記」一六三六年七月二九日条)

出島のオランダ商館は長崎奉行の管轄下にあり、町年寄の支配を受けた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報