内田庄・内田郷(読み)うちだのしよう・うちだごう

日本歴史地名大系 「内田庄・内田郷」の解説

内田庄・内田郷
うちだのしよう・うちだごう

現掛川市上内田、現菊川町中内田・下内田一帯の上小笠かみおがさ川流域に比定される。京都六条左女牛さめうし八幡宮(現京都市東山区の若宮八幡宮社)の造営料を負担する御家人を書上げた建治元年(一二七五)五月の造六条八幡新宮用途支配注文(国立歴史民俗博物館蔵)に「内田庄司」とみえ、御家人内田氏の名字の地である。庄内は鎌倉時代初期から上郷下郷に分れ(嘉禎二年六月日「内田致茂譲状写」内田文書など)、「吾妻鏡」などに活躍が記される惣領家は上郷を領有したと推測され、下郷を相伝した家は内田文書(写)を伝える。正和三年(一三一四)一二月二七日の関東下知状写(内田文書、以下断りのない限り同文書)には近江園城おんじよう(三井寺)領とみえ、領家と推定される。同下知状写によると園城寺と下郷地頭内田致朝との間で下地中分が成立し、下郷の田地は二五町余と記される。

嘉禎二年(一二三六)六月、内田致茂は内田庄下郷地頭職を子息致員に譲って(前掲内田致茂譲状写)、同年一二月一日の北条時房下知状(写)安堵され、文永八年(一二七一)四月三日、致員は下郷地頭職を次男致親(のち致朝)に譲る(内田致員譲状写)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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