典館跡(読み)きてんかんあと

日本歴史地名大系 「典館跡」の解説

典館跡
きてんかんあと

[現在地名]甲府市丸の内一丁目

甲府城内に設けられた学問所。寛政八年(一七九六)頃に甲府追手勤番支配の近藤政明が相役山手勤番支配の永見為貞と図り、勤番士とその子弟の教育を目的として当時勝手小普請役であった富田富五郎(武陵)の学才を起用し、仮の学舎を追手勤番支配役宅内に設けた学問所に始まる(「富田富五郎墓碑銘」教育資料人物部)。享和三年(一八〇三)幕命を受けて翌文化元年(一八〇四)校舎を甲府城追手門前から南の追手おうて小路に新築(「御用日記」坂田家文書など)。同二年大学頭林衡により学問所は徽典館と命名され、また松平定信揮毫になる徽典館の扁額が校舎に掲げられた(山梨大学学芸学部沿革史)

典館跡
きてんかんあと

[現在地名]松前郡松前町字松城

松前藩が陸奥梁川やながわ(現福島県梁川町)から帰封した翌年の文政五年(一八二二)に創設された藩校。所在地は福山城外郭うま坂脇で、ほかに支校が城内二ノ丸・西ノ丸、城下あら(二校)・新荒町・唐津内沢からつないさわ町に六校あった。明治元年(一八六八)の兵火により多くの書籍・文書類が焼失したため詳しくはわからないが、創立の目的は儒教倫理の教化徹底による士気涵養、有能な人材の養成、北辺防備のための藩士の再教育にあった。馬坂脇の校舎は九室からなり、建坪は七八坪余であった。藩儒杉村伝五郎・朱子学者平沼蕩平が登用され、授業は素読・講義・質問・詩会・文会から構成されていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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