八重山島蔵元跡(読み)やえやまじまくらもとあと

日本歴史地名大系 「八重山島蔵元跡」の解説

八重山島蔵元跡
やえやまじまくらもとあと

[現在地名]石垣市登野城

王府時代、八重山島全体の行政をつかさどった役所で、蔵元は方言ウラとよばれた。嘉靖三年(一五二四)竹富たけとみ島に創設され、数度の移転後、嘉慶二〇年(一八一五)から一八九七年(明治三〇年)の廃止までは登野城とうぬすく村の南端美崎みしやぎい御嶽の西にあった。「球陽」尚真王四八年(一五二四)条には「公倉」とみえ、この年竹富大首里大屋子に任じられた西塘が故郷竹富島に設置し、それまでの満挽与人に代わって八重山の行政を執行したという。しかし竹富島は土地が狭小で交通も不便なことから、尚清王一七年(一五四三)に石垣島登野城村(後の大川村域)の南西部、プンナーパカの中道の南に移したと伝える。一般に公倉(公蔵)とは貢納物の収蔵庫であり、それに関連する管理・出納などの仕事そのものがいわゆる当時の行政事務であった。

蔵元が王府の下部行政機関として整備・強化されたのは、一七世紀に入ってからと考えられている。崇禎元年(一六二八)八重山は大浜ほーま石垣いしやなぎい宮良めーらの三間切に編成され(八重山島年来記)、蔵元は各間切に一名ずつ配された頭三人を中心に運営され、各村役人への指示・指導も行った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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