八橋村(読み)やばせむら

日本歴史地名大系 「八橋村」の解説

八橋村
やばせむら

[現在地名]秋田市山王さんのう一丁目・同二丁目・高陽幸こうようさいわい町・同青柳あおやぎ町・八橋

久保田くぼた城下の北西、元和二年(一六一六)久保田土崎湊つちざきみなと間に開通した八橋街道に沿う街村。街道の路傍に現在も大小の石碑老松茂みが残る。藩政期を通じ、谷橋村・矢橋村とも記す。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に谷橋新田村二〇二石とあるが、享保一四年(一七二九)の秋田郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に、かつては上下に分れていたが一村にまとめたとあり、「但正保元禄誤新田出」とあるので、正保期には成立していたと思われる。

八橋村
やつはしむら

[現在地名]知立市八橋町

碧海へきかい台地を開析する逢妻男あいづまお川の浸食谷の頭部にあたる。北は逢妻男川で花園はなぞの(現豊田市)と境し、東はさと(現安城市)、南は来迎寺らいこうじ村・牛田うしだ村、西は駒場こまんば(現豊田市)と接する。東海道岡崎おかざき宿(現岡崎市)から池鯉鮒ちりゆう宿へ至る中間から一里ばかり北方に位置する。村名の由来は逢妻男川が八つの流れをもち、八つの橋が架かっていたところから生れたという(無量寿寺縁起)。「和名抄」に記す碧海あおみ郡一五郷のうち智立ちりゆう郷に含まれるとされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報