八戸湊(読み)はちのへみなと

日本歴史地名大系 「八戸湊」の解説

八戸湊
はちのへみなと

八戸城下の北東、西の馬淵まべち川・新井田にいだ河口から東のかぶ島にかけての海岸に位置する。西の河口に湊、中央の海岸に白金浜しろがねはまの湊、東にさめ湊があり、この三湊が複合的に共存し、補完しあって、八戸湊・八戸浦を形成する。鮫湊にはおもに廻船、湊には廻船への荷役の艀や漁船が入り、白金浜の湊は両湊の補助港となっていた。正保四年(一六四七)の南部領内総絵図では河口に鮫湊と記す。明和七年(一七七〇)の「日本汐路之記」には「南部八戸 川湊 泊へ拾八里、此湊悪し、入口に地より壱丁沖に平瀬ありて此間空船は通るなり、入口のかぶしまにて取梶して懸る、西北の風悪し、此奥へ入は八戸湊川也、川浅し、大船入かたきときは白銀浜へかかり荷物積也、此処より大豆魚粕沢山ニ出る也」とある。

慶長二〇年(一六一五)五月二七日付の八戸勘解由宛南部利直書状(篤焉家訓)に「八戸うら慶長十九年分かこ役金分六拾匁」とあり、すでに盛岡藩時代から港としての機能がみられる。雑書の寛永二一年(一六四四)四月八日条に「八戸ヨリ御船米寛永十九年ニ五千石閉伊へ被遣候」、同月一四日条に「江戸へ御遣飯米閉伊ヨリ船ニ為上申駄数之事、八戸ヨリ閉伊ヘ廻シ申御蔵米百七拾弐石弐斗船頭長右衛門ヨリ預之御舟ニ積(中略)同八戸御蔵米百三拾三石弐斗五升船頭孫右衛門預之御舟ニ積候」とあり、蔵米の積出しが行われている。同書の正保元年一一月一〇日条には「初鱈一従八戸湊豊河ト申者当月十二日寅刻取上候由」、承応元年(一六五二)二月八日条には「八戸浦ニて江戸へ為御上被成候御船米弐百五十石積御米大豆積候処、火事出来、船共ニ焼亡」とある。

寛文四年(一六六四)八戸藩が創設されると、当湊は同藩随一の輸出港として重視されるようになった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報