八幡八郷(読み)やわたはちごう

日本歴史地名大系 「八幡八郷」の解説

八幡八郷
やわたはちごう

石清水いわしみず八幡宮の鎮座する男山の、北と東に位置する門前の科手しなで常盤ときわ山路やまじ金振かなぶりうち四郷と、その東に広がる美豆みず際目さいめ生津なまづ(現京都市伏見区)川口かわぐちそと四郷とを併せて八郷という。八幡庄とも称した。慶長五年(一六〇〇)指出検地以後戸津とうづ村の西半三六〇石余の地は、替地とされた下奈良しもなら村と合し、奈良郷という名で外郷の内に数えられた。

なお八郷域は山下さんげともよばれ、これに対し、男山山頂の石清水八幡宮や山中の坊舎および山麓の宿院を含む八幡宮境内域を、山上さんじようとよぶ。

初見は慶長五年九月一九日付の徳川家康禁制(「石清水八幡宮史」所引)で、その宛名に「八幡八郷」とある。また同一五年九月二五日付の家康朱印条目(同書)には「右八幡八郷之事、検地令免許、守護不入之上、神事霊地等不可有油断、諸事社(法)之次第不可相背候」とあって、以後八幡八郷は検地免除され、守護不入の地として八幡宮社務(検校)に支配される。

内四郷は、正応二年(一二八九)七月一五日付の安居頭人差定(「榊葉集」所引)に、常盤郷住人内膳三郎子・科手郷住人郷房太郎中務入道孫・金振郷住人新次郎・山路郷住人宮内新太郎先生とみえ、中世初期から八幡宮境内四郷として成立していた。

外四郷は、応永九年(一四〇二)七月一一日付の山城守護代遵行状(「石清水八幡宮史」所引)に「石清水八幡宮山城国四ケ郷内美豆・河口二ケ郷」とあることや、文明二年(一四七〇)八月一一日付の妙禅奉書(同書)に「美豆河口両郷御年貢以下事、為四郷被執申候之間」とあることから、室町時代に八幡宮外四郷として形成されたと考えられる。なお寛文九年(一六六九)の社務田中要清の口書案(石清水文書)は「八幡庄外四郷と申候、生津、際目、美豆、河口四ケ村ニ候」と記す。

〔安居神事〕

八郷は石清水八幡宮の社務当職によって支配されたが、他の寺社領との大きな相違点は安居あんご神事を行うことを前提にした神人組織と、その神人たちに幕府から直接朱印地として分与された所領形態にある。八郷は社務以下社士・神人・安居百姓などの各自領主の所領の集合であったといえる。社領は六千五〇〇石弱であったが、それは他の寺社領のように社務に一紙で朱印地が与えられ、それを領内諸寺院や所司・百姓に分与するのではなく、社務各家をはじめ山上・山下在住の総衆が、三百数十通の朱印状によって、その所領を直接朱印地として与えられた。

慶長一五年九月二五日付の家康朱印条目には、「先年検地免許之神領之内、為地下人之役、安居之神事相勤之間、田畠等他所之者、并坊寺売候者、相改可棄破之事、八幡之神領之内令知行、他所ニ居住之者是又可棄破之事」とあって、八幡在住の地下人が安居神事を勤めることが重要視され、その役料として朱印地が与えられたものであることが示されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の八幡八郷の言及

【八幡[市]】より

…町場の形成は平安末期から始まり,中世には神人(じにん)の座のほかに絹座,紺座,軽物座など多数の商人の座が成立していた。男山山麓の北と東に形成された門前町の八幡町(八幡惣町)は科手(しなで),常盤(ときわ),山路,金振(かなぶり)の4郷(内四郷)からなり,東に広がる川口など外四郷とあわせて八幡八郷とも八幡荘とも呼ばれた。1600年(慶長5)には八幡惣町は総家数1085,そのほか八幡宮の山下寺庵が130あり,江戸後期に至ってもさほど増加はみられない。…

※「八幡八郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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