八代南俣村(読み)やつしろみなみまたむら

日本歴史地名大系 「八代南俣村」の解説

八代南俣村
やつしろみなみまたむら

[現在地名]国富町八代南俣

本庄ほんじよう村の北西に位置し、北東八代北俣やつしろきたまた村。村の中央を北西から南東三名さんみよう川が貫流する。高岡たかおか郷に属した(三州御治世要覧)あや郷の南俣村と区別するため八代を冠してよばれ、南股村とも記された。「和名抄」記載の諸県郡八代郷の遺称地。建武三年(一三三六)二月四日の大前道貞軍忠状(旧記雑録)に「馳向日向国諸県郡八代」とみえ、道貞は一月二九日南朝方の伊東祐広の居城(猪野見城)に押寄せている。南北朝―室町時代には諸県庄に含まれ、八代名または単に八代とよばれた。天正一六年(一五八八)八月五日の日向国知行方目録によれば、八代三〇町が豊臣秀吉から島津義弘に宛行われている。八代は八代北俣村を合せた総称。同二〇年細川幽斎が関与して島津領の寺社領が没収されたが、八代はわずかの影響しか被っていない(同年四月吉日「薩隅日寺社領注文」旧記雑録)。文禄四年(一五九五)の豊臣秀吉朱印知行方目録(島津家文書)によると、八代村は三千九六二石余。慶長二年(一五九七)六月、島津義久は在郷する娘の領地五千石を安堵、そのなかに八代村三千九七〇石余が含まれていた(「島津竜伯宛行状」旧記雑録)

慶長五年五月、島津義弘は庄内合戦の終了後、山城伏見にあって豊臣秀頼家臣の石田三成と徳川家康の対立の渦中にあったが、島津豊久は義弘を追って伏見に向かう途上、四月二八日頃に八代で洪水のため数日足止めをくったという(五月一七日「島津義弘書状」旧記雑録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報