佐陀庄(読み)さだのしよう

日本歴史地名大系 「佐陀庄」の解説

佐陀庄
さだのしよう

現鹿島町佐陀宮内さだみやうち佐陀本郷さだほんごう講武こうぶ地区、現松江市上佐陀かみさだ町・下佐陀町・浜佐田はまさだ町・西浜佐陀町を含む佐陀川流域一帯に所在した安楽寿あんらくじゆ(現京都市伏見区)領庄園。佐太さだ神社とその周辺地域が安楽寿院に寄進されて末社となり、「佐陀社」と記して佐陀庄の意味にも用いられた。そのほかに佐陀御領などともよばれた。康治二年(一一四三)八月一九日の太政官牒案(安楽寿院文書)に上総国橘木たちばな(現千葉県茂原市)と並んで「佐陀社」が末社の一つとしてみえ、秋鹿あいか恵積えつみ郷と島根郡生馬いくま(現松江市)領主権威を募って鳥羽院庁に所領を寄進、これを機に恵積郷は佐陀庄の中に吸収され消滅、また生馬郷も西半分が消滅、東半分のみがその後の国衙領生馬郷を構成することとなった。同太政官牒案によると、佐陀社(庄)の領域は「東限来飯御分戸、南限佐陀江口御分戸、西限奈能海御分戸、北限守津御分戸」とあり、佐陀川流域の日本海から宍道湖沿岸に至る広大な地域を含んでいたと推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報