仁井田村(読み)にいだむら

日本歴史地名大系 「仁井田村」の解説

仁井田村
にいだむら

[現在地名]本宮町仁井田

本宮村の南、安達郡の南端にあり阿武隈川の西岸に沿う。南の安積あさか郡との境を五百ごひやく川が東流し、阿武隈川に合流する。村域は本宮盆地に含まれて平坦で、耕地は肥沃である。元和年間(一六一五―二四)岩色いわいろ堰が延長されて開田が進み、さらに寛文年間(一六六一―七三)には諸子沢もろこざわ堰が開かれて灌漑は全村に行渡ったと伝える。村のほぼ中央を奥州道中が南北に縦貫し、字一里壇いちりだん一里塚があった。村名は新開地で新田の意といい(相生集)、元和三年の年貢割付状(国分家文書)には「新田村」とある。

中世の城館跡に字宮下みやしたの仁井田館(小坂館ともいい、蘆名氏の麾下新田右衛門四郎の居館)と字桝形ますがた瀬戸川せとがわ(天正の頃瀬戸川氏が居館)がある。後者は天正一三年(一五八五)人取ひととり橋合戦のとき伊達成実の本拠となった(相生集)。人取橋は瀬戸川に架かる舟橋で、「相生集」は「仁井田舟橋」とし、「本村と本宮との間にある土橋、今是を人取橋といふは誤也」と述べている。

仁井田村
にいだむら

[現在地名]高知市仁井田

いけ村の西と東南を囲むように位置し、当村吹井ふけいは池村の北東部にある。南は土佐湾、西は浦戸うらど湾。村のほとんどは平地。長岡郡に属した。「土佐州郡志」は「東西四十町南北三十町、戸凡百九十、其地砂土、里人農業之暇煮海為塩、又事漁猟」と記し、小村として仁井田窪にいだくぼ中島なかじま・東村・西之野にしのの・吸(吹)井村・蛭子浦・五本松ごほんまつをあげる。

長宗我部氏時代は池村のうちに含まれており、天正一五年(一五八七)の池村地検帳の小名のなかに、近世の仁井田村の小村名「仁井田ノクホ」「堺タ中吹井」がみえている。また同帳最後に「仁井田之窪塩浜分」があり、村域に塩浜の多かったことが知られる。この頃浦戸湾側の西之野は長宗我部元親の船置場となっていたという。

仁井田村
にいだむら

[現在地名]福島市仁井田

八木田やぎた村の西、荒川両岸に沿うが、大部分は右岸にある。新田とも記す。西はしも村・桜本さくらもと村、南は赤川あかがわ村・成田なりた村、北は笹木野ささきの村および荒川の支流川を隔てて上野寺かみのでら村など。荒川と須川の合流点にあたり、両河川の氾濫で村が分断され、荒川の両岸に位置するようになった。天文七年(一五三八)の段銭古帳では信夫名倉しのぶなぐら方のうちとして「にい田」とみえ、段銭は一〇貫八二五文。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に新田とみえ、高六七五石余。近世初期の邑鑑でも新田村とあり、高六七二石、免二ツ七分、家数一〇(役家四、肝煎一、寺・山伏・脇家五)、人数二九、役木として桑少しがある。

仁井田村
にいだむら

[現在地名]須賀川市仁井田・向陽町こうようちよう

滑川なめがわ村の西、滑川両岸の氾濫原と周縁の丘陵に立地。東部に端郷の関下せきしたがある。地名は二階堂為氏が文安三年(一四四六)当地に館を築き新田を開発したことに由来するという(岩瀬郡誌)新田にいだとも書く。天文一七年(一五四八)二階堂方浜尾豊前と伊達軍が戦った牛庭合戦の古城跡がある。伊達輝宗日記(伊達家文書)天正二年(一五七四)三月二七日条に「二三日新田へこくいれ」とみえ、当地へ攻め込んだ田村清顕が越久おつきゆうまで後退して二階堂輝行勢と合戦している。同一七年一一月二〇日の伊達政宗充行状写(同文書)に「一新田・一あかし田」とみえ、明石田あかしだほかとともに本領の替地として二階堂氏旧臣の浜尾駿河守(盛泰)に与えている。

仁井田村
にいだむら

[現在地名]北茨城市関南せきなみ町仁井田

里根さとね川の河口右岸に位置し、平地が開ける。南東は海に面し、東は大津おおつ村。古くは「新田」と記し、常陸国赤浜妙法寺過去帳の弘治三年(一五五七)に「日伝新田ニテ死去ス勧行坊九二」と地名がみえる。「新編常陸国誌」は「和名抄」に載る古代新居にいい郷の遺名といわれると記す。「大塚誌」には元禄一一年(一六九八)の村高三七一・四三石とあり、松平周防守様天保七申年より御領地之事(「塙町史」所収)には天保七年(一八三六)の村高三九一・四〇五石とある。

仁井田村
にいだむら

[現在地名]鏡石町鏡田かがみだ

鏡沼かがみぬま村の南西釈迦堂しやかどう川東岸平地に立地。奥州道中の付替え以前は鏡沼村の旧地にあり、同村の端村であったが、鏡沼村が道中筋に移転すると同村の旧地を合せた村域となり、分離独立したという。独立時期は明暦二年(一六五六)の万引川欠砂入屋敷登り帳(今泉家文書)では、同年に鏡沼村の移転完了とし、「白河風土記」では元禄一三年(一七〇〇)とする。しかし白河古領村郷高帳に「鏡沼より分ル」として村名がみえ、高一七五石余。安永二年(一七七三)の白河郡村々細見記(加藤家文書)では高一七五石余、うち本田高一五九石余・古新田高一四石余・改出新田高一石余、川欠けなど引高一七石余、残高一五五石余、免四ツ一分二厘、反別田一二町余・畑三町三反余、家数一五(高持一一・無高四)、人数六一(男三四・女二七)

仁井田村
にいだむら

[現在地名]いわき市仁井田町・中岡町なかおかまち

山田やまだ川流域にあり、北は高倉たかくら村・下山田村、東は後田うしろだ村。菊多きくた郡に属した。近世は磐城平藩領。元禄郷帳に新田村とあり、高二五三石余。旧高旧領取調帳では仁井田村で高三五三石余。延享四年(一七四七)村明細帳(内藤家文書)によれば、本田高二五一石余・反別二二町二反余、新高七六石余・反別八町六反余、家数三八(百姓二八・水呑一〇)、人数一六一、馬五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報