二川村(読み)ふたがわむら

日本歴史地名大系 「二川村」の解説

二川村
ふたがわむら

[現在地名]垂水市二川

ふもと村の北東に位置し、北西は海に面する。海岸線に沿って細長い平地が続く。中世は下大隅郡(下大隅)のうちに含まれていた。延文四年(一三五九)一〇月五日の国合原くにあいばる(現末吉町)での合戦で北原氏と結んだ肥後相良氏に敗れた島津氏久は、市成いちなり(現輝北町)飯牟礼いいむれ山の険路を越えて「二川浦」(現在の深港か)から鹿児島へ渡っている(「島津氏久譜」旧記雑録)。現在の深港ふかみなとに鎮座する飯牟礼神社は応安三年(一三七〇)に氏久が創建したという(垂水市史)。永享八年(一四三六)五月二〇日の島津忠国宛行状(山田文書)によると、山田忠尚に島津庄大隅方下大隅郡内の「二河村」が宛行われているが、この宛行状は反忠国方の永享国一揆に対する守護方与同勢力の山田氏に発給されたものである。

二川村
ふたかわむら

[現在地名]清水町二川

大谷おおたに村の東にあり、村域は有田川両岸にわたる。「続風土記」に「村居南原・北原と分かれ在田川其中間を流る、川中に大石三ツありて其処にて水二ツに分流せり、村名是より出たるならむ」とある。

慶長検地高目録によれば村高一二三石余、小物成五斗二升三合。寛政一一年(一七九九)の二川村持高当作高并人別御調へニ付書上帳(堀江家文書)によれば、家数七五(うち無高一)、人数三四二(男一六八・女一七四)、牛二五。大工職三人、木挽職七人、鍛冶職五人、家根屋職二人、造酒屋一人、紙商売一人、紺屋職一人、糸賃取稼一人、日雇稼二一人、奉公一〇人がいた。文政三年(一八二〇)の山保田組在々家数人数并牛馬増減調帳(同文書)によれば家数七二(高持六七・無高四・寺一)、居村稼人三一八、牛三〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報