乱橋材木座村(読み)みだればしざいもくざむら

日本歴史地名大系 「乱橋材木座村」の解説

乱橋材木座村
みだればしざいもくざむら

[現在地名]鎌倉市材木座一―六丁目・由比ゆいはま二―四丁目

南は由比ガ浜、西部をなめり川が流れて同浜に入り、小町大路こまちおおじへと続く道路沿いにある村で、北は大町おおまち村、西は長谷はせ村と坂之下さかのした村、東は三浦郡小坪こつぼ(現逗子市)に接する。鎌倉・南北朝時代には港湾・商業地域として繁栄した。

材木座とは、中世に材木を販売した座のことで、鎌倉時代末期、金沢貞顕に仕えていた宗清の年未詳二月一日の書状(県史二)に「一日さいもくさ(材木座)に五六候ハて候しあいた、御さいもくあけす候事、心もとなくそんし候」とみえる。貞治六年(一三六七)九月五日の将軍足利義詮御教書案(県史三)で、「鎌倉材木座」が佐々木導誉に返付されている。すでに建長五年(一二五三)一〇月一一日、鎌倉幕府が「和賀江津材木事」に関し、長さなどの規格を定めているし(吾妻鏡)、前記宗清書状に「はまのさいもくうり」とみえることからも、材木座の位置は、由比ガ浜の東南部、和賀江付近と推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報