乙村(読み)きのとむら

日本歴史地名大系 「乙村」の解説

乙村
きのとむら

[現在地名]中条町乙

東を乙大日きのとだいにち(旧胎内川)が北流し、北は地蔵堂じぞうどう村、東は松木新まつきしん村に接する砂丘上の村。村名は大化四年(六四八)に置かれた磐舟柵いわふねのきに由来するといわれる。古刹乙宝おつぽう寺を中心とする村で、元和三年(一六一七)八月二二日の村上忠勝寺領宛行状(乙宝寺文書)に「中村作兵衛替知乙村」とみえ、一〇〇石が乙宝寺に寄せられている。正保国絵図では三〇〇石余。村上藩領に属し、宝永六年(一七〇九)幕府領、翌七年村上藩領に復した。


おとのつじむら

[現在地名]摂津市千里丘東せんりおかひがし一―二丁目・香露園こうろえん昭和園しようわえんさくら町一丁目、茨木いばらき蔵垣内くらかきうち三丁目・大正たいしよう町など

もと三宅みやけ(三宅郷)の属邑で、中世三宅庄に含まれたとみられる(茨木市の→三宅庄三宅村。北は東蔵垣内ひがしくらがいち・西蔵垣内両村(現茨木市)、南は太中たいなか村。村の中央を茨木方面への道が通り、この道に沿って東西両蔵垣内村・太中村・小坪井こつぼい村と集落を連ねる。耕地もこれらの諸村、ことに太中村・小坪井村と複雑に入組んでいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報