久富村(読み)ひさとみむら

日本歴史地名大系 「久富村」の解説

久富村
ひさとみむら

[現在地名]油谷町大字久富

油谷湾に流入する掛淵かけぶち川南側の村で、その支流久富川が村内を北流する。集落は北に偏り、河川沿いの平地に集まる。南部の大半は山地である。西は新別名しんべつみよう河原かわらの両村、北東は日置へき(現日置町)、南は俵山たわらやま(現長門市)である。先大津宰判に所属する。

俵山の能満のうまん寺蔵の享禄五年(一五三二)九月二一日付文書に「長州大津郡日置庄久富村七石捌斗足」の杉大膳進被官三井弾正忠先知行の地を、吉田七郎興量に宛行った由がみえる。当時は日置庄内であったらしい。

慶長一五年(一六一〇)検地帳には「久留村」として記され、総石高一千三九三石余、うち田方が一二九町余で一千三一三石余、畠方が五町余で二四石余、百姓屋敷一〇二、小物成高三石余とある。

久富村
ひさどみむら

[現在地名]筑後市久富

坂東寺ばんどうじ村の南、やま川右岸に位置する。久留村とも書く(寛文十年寺社開基)。中世は広川ひろかわ庄のうち。天福二年(一二三四)二月日の坂東寺所役注文案(岡本文書/鎌倉遺文七)に「久富名卅一町」とみえ、坂東寺の造営料足段銭九貫三〇〇文が賦課されたほか、九日会の二季祭供料田四反二丈および饗膳や相撲・駕輿丁・男舞・童舞役を賦課されている。嘉禎三年(一二三七)には坂東寺の鳥居より西方の釘貫(柵)三間分を賦課され(同年九月二八日「公文所下文案」同上)、寛元三年(一二四五)には鳥居西方の釘貫一間分の負担が定められた(同年一〇月六日「広川庄鎮守神役支配状案」同文書/鎌倉遺文九)

久富村
ひさどみむら

[現在地名]佐賀市金立町きんりゆうまち大字千布ちふ

東の境を徳永とくなが川(巨勢こせ川)で徳永村九郎名くろうみよう村と接し、南はいち川を境に小里おざと村や東淵ひがしぶち村と接し、西は千布村・平尾ひらお村、北は金立かなたて村に接する。正保絵図に村名がみえる。文化一四年(一八一七)の郷村帳には白銀土井友貞とぶさの字名が記されている。

久富村
ひさどみむら

[現在地名]犀川町久富

続命院ぞくみよういん村の東に位置し、豊津とよつ台地へと連なる山地の西麓に集落が形成されている。久留とも記される(元和八年人畜改帳ほか)。弘治二年(一五五六)四月一三日の大内義長宛行状写(右田文書/熊本県史料 中世篇四)によると、大内氏はもと怒留湯勘解由左衛門尉が知行していた「仲津郡久富村」の地八町一反余ほかを右田十郎鑑康に与えている。元和八年人畜改帳によると給人一人分の高四八〇石、家数三三・人数七三(うち庄屋一・百姓五・名子一一)、牛一〇。寛永九年(一六三二)の高四八六石(「仲津郡寛永六年七年八年三ヶ年之御免帳」永青文庫)。郷村高帳では高四九五石余、うち新田高八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報